セント

いまさらのようですが,大河ドラマの真田丸が終わり,別の大河ドラマが既に始まっています。

9月頃に,どうにも主人公がダメだと書いた後あたりから,主人公の幸村にも多少覇気がでてきて,マシになりました。
とはいえ,振り返ると全体的に面白かった中で,主人公の存在感の弱さがもっとも気になった点でした。
以前の真田太平記でも幸村がいまいちだったので,ちょっと考えてみました。

そもそも,真田幸村はなぜ有名なのか,というと実は現代日本人には理解しがたい宗教的な意義があると思います。
朱子学の発想でいえば,ダメな主君に最後まで忠義を尽くす有能な家臣というのが,忠 の見本です。
そして,その価値を体現した一人が幸村であり,宗教的表現をすれば,殉教者だったり,聖人だったりする,そういう人なのだろうと思います。
楠木正成や大石内蔵助なんていうのも,同じような方でしょう。

つまり,キリスト教圏で,セントだ,サンタだ,サンクトだという後に名前がつくような,宗教的な感動を呼び起こす殉教者という側面が真田幸村にはあったのではないかと思います。

もっとも,現代人にはそのあたりは全く理解不能。ほとんど共感を持ちえない。その結果,物語は現代風の自己実現的なものになってしまう。
ところが,自己実現の話としては,やはり幸村の行動はとらえきれないものがある。おのずと存在は曖昧になり,現代人にも理解しやすい真田昌幸が魅力的になる。
そんなところでしょうか。

ところで,10月頃から,トルストイの戦争と平和を読んでいます。
この小説での戦争とは,ナポレオンがロシアを攻めたときの戦争です。

で,ちょうど真田丸で大坂方の幹部のダメっぷりが描かれて,それが敗因のような描かれ方をしている中で,戦争と平和では,ロシア側の無策もろもろの大坂方と重なるようなダメっぷりが,結果としてフランスがモスクワまで進むことにつながり,最終的なナポレオン軍の壊滅をもたらしたかのように主張されていました(この小説は小説中に著者の主張がちりばめられている)。ちょうど,タイミングが重なり,面白かったです。
もっとも,ダメだからこそ勝ったというのは事実としてはそういうこともあるだろうし,逆説としては面白い。でも,人間の認識構造は勝ったという結果をもとに何故勝ったのか考え,わかりやすい原因と結果の連鎖をみつけて学習するということだろうから,本当に「ダメだから勝った」ということを受け入れることはできないようにも思えます。

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