Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

AIでどうなる

月曜日, 5月 26th, 2025

ここ半年かそこらでのAIの進化には驚くばかりです。
とりあえず、「様々なことが便利にできる」ということを感じますが、社会全体、特に人間の仕事に対する影響は、すごいことになりそうです。



まずは映画・ドラマ的なもの。AIが作ってくれますので、俳優も映画セットもカメラ担当も何もいりません。正直、日本の映画・ドラマは同じ俳優ばかりでてくるところがウンザリなので、同じ考えをもつ人にとってはAI作成のほうがむしろ好ましいかもしれません。
当面は、シナリオを作る部分は人間の仕事として残るかなと思いますが、AIが人間が作るより魅力的なシナリオを作るのも時間の問題でしょう。



同じくエンターテイメント的なものでいえば、ゲームの作成もほぼAIが作ってくれる段階ですので、ゲーム作成のプログラム、映像作成的な仕事もほとんど不要になるでしょう。



ゲームに限らずプログラム作成の仕事については、全体を管理する人以外はほとんど人ではいらなくなると思われます。このような仕事をしている人はたくさんいると思うのでかなり多くの人の仕事がなくなると思います。



また現在のチャット的な対話能力、音声構成能力からすれば、電話応対・顧客対応をAIがするのも時間の問題と思われます。
結局のところ、デスクワークの大半は、人がやる必要がなくなる、人のする仕事がなくなる、ということなのだろうと思います。



この状況は10年先とかではなく、数年先という可能性もあるのではないかと思います。



運転の類も自動運転という先が見えているし、介護的な仕事もロボットという未来はありますが、この手のことは機械のメンテナンスや運用コスト諸々があるので、人間がやったほうが安いということで、デスクワークに比べると仕事が残る可能性もあるのかなと思います。



そんな状況で世の中がどうなるのか、一部の守られた仕事の人以外は一斉に失業するのか、うまいこと肉体労働的なところをワークシェアしながら、AIに仕事をまかせて、大半の人が1日数時間働けば暮らしていけるような社会になるのか。それとは全く違う展開になるのか。



なんとか動きについていきながら、乗り越えていきたいと思います。

インドの哲学

水曜日, 4月 30th, 2025

なんとなく興味が出てきてインドの古典を読んでいます。



私が大学にいたころ、文学部の哲学系はいくつかの学科(専修課程と呼ばれていたような気もする)に分かれていました。



哲学(西洋哲学をやる)、中国哲学、インド哲学、倫理学(ここは日本と西洋をやる)



哲学といえば西洋の哲学をイメージするので西洋哲学は当然あります。また、日本の伝統からして中国哲学もあるでしょう。
ただインドについては、なんだかマニアックな感じがして、「わざわざ西洋哲学や中国哲学とともに並べるようなものなのかなあ」と思っていました。古代仏教の研究でもしているのだろうか、という感じであまり私も興味がありませんでした。



とはいえ、西洋哲学にふれているとニーチェだったりショーペンハウエルだったりが古代インド哲学に強い影響を受けているなんて話も出てきます。でも、キリスト教文化圏からしたら輪廻転生的な発想は示唆に富むのだろうなという程度の認識でした。



実際に読み出してみて驚くのは、近代以降の大陸系の西洋哲学の関心の類似性です。
インド哲学で強い関心の対象となる本当の自己とでもいうものは、デカルトのコギトやライプニッツのモナドを思わせます。また、そのあたりからスタートして自己以外の世界との関連性を考えていくあたりは現象学やハイデガーあたりの構成を思い出させます。



プラトン・アリストテレスあたりを中心に様々なことを独特の論理構成で分析していった古代ギリシャ哲学、形而上学的なあたりを徹底的に避けながら実学としての完成度を目指した古代中国哲学とは違う、独自の世界です。いまさらながら、インド哲学の学科があったのもうなづける次第です。



山火事

月曜日, 3月 31st, 2025

最近は、国内ニュースでも国際ニュースでも山火事の報道が多くなっているようです。
私も、山小屋があるので人ごとではありません。



異常気象という観点で報道されることも多くあります。
でも、そもそも山火事は自然環境において、起こるべきことです。一定の間隔で山火事が発生することを前提になっています。山火事をきっかけに発芽する種があり、山火事を待っているのです。
ところが山火事は人間にとっては困るので、山火事が発生しないように色々と工夫をします。つまり、山火事を発生しないようにしていることが自然破壊といえます。



多くの自然破壊云々の話は、変化を嫌うことにあります。変化が発生すると、人間に営みにおいて多くの損害が発生してしまうからです。山が燃えれば、せっかく植えた木がだいなしになるし、家も燃えてしまいます。海岸線が変われば、様々なものが海に沈みます。



地球が温暖化すれば、ある場所は使い物にならなくなるが、別のどうにもならない場所が有効活用できるようになります。それでは、前者に利害を持つ人は困るということです。
でも、一度、温暖化が進んだ上で、核融合の実用化成功等で莫大なエネルギーを手に入れて、気候を元に戻すことができるとなったら、それはそれで、変化が生じて困る人が出てくるわけです。



自然現象について、人災という観点が発生しだすと、色々とややこしくなるということだろうと思います。

知略の文化的評価

水曜日, 2月 19th, 2025

海外ドラマの『ヴァイキング 〜海の覇者たち〜』とか『ゲーム・オブ・スローンズ』では戦争シーンが多くあります。でも、日本人の感覚からすると違和感があります。
いわゆる作戦というか知略というものがないのです。
日本的な歴史ドラマの戦闘では、軍の指揮官自体だったり、その横にいる誰かだったりが知略を働かせて、その成否で勝敗が決るという筋書きが通常です。「卑怯者!」というセリフは、基本的に負け犬の遠吠えの位置づけです。



ところが上記のドラマではそういう気配がありません。見張りもいないようで、突然、予想外の大軍がどこからか現れて勝敗が決するという場面も複数ありました。



あまりに原始的で野蛮な感じもして、そんなもんなんだなあ、と思っていました。



ところが、『インド外交の流儀:先行き不透明な世界に向けた戦略』というインドの外交の重鎮がかいた本で思わぬ意見を目にします。中国は、謀略を駆使する卑怯者を英雄視するような文化であって信用ならない、というような内容です。諸葛孔明あたりでしょうか。
多少、意表をつかれた感じです。日本も中国と同じ文化で、知略を駆使する者は英雄です。



今、マヌ法典という古代インドの様々なルールを定めた本を読んでいます。なかなか面白いのですが、王の生き方を示す部分で
「策略を用いずに行動すべし。決して策略を用いてはならない」
「王は、同等、優勢あるいは劣勢(いずれの敵)によってであれ戦いを挑まれたならば、(中略)、戦闘を避けてはならない」
という感じです。策略は用いず、勝てそうもない戦いも戦うべしということのようです。なるほど、こういう文化的背景なのか、という感じです。
基本的には、このように行動すれば、それで死んでしまったとしても来世で良いことがあり、卑怯なマネをすれば来世でひどいことになるということでなりたっているようです。



こういう文化的背景の人が、『真田丸』なんてみると、卑劣な詐欺師をみているようで、不愉快な感じだったりするのかもしれません。

Woke(ウォーク)

木曜日, 1月 30th, 2025

トランプ大統領が 再選された理由の一つ にウォークに対する反発があるようです。
ウォークという言葉はそれほど馴染みがないのかもしれません。 私も、 この半年ぐらいの間に知った言葉です。
私が『社会改善運動をするヤツラ』と勝手に名付けていたものと、ほとんど同じような感じなんだと思っています。



今まで普通に許されていた行為が、いつのまにか許しがたい行為になって、 さらには犯罪になってしまう(子供の躾とかパワハラとか)。
ウォークな人たちの価値観に反することを言ったら最後、許しがたい 失言として、撤回 や謝罪を迫られる(男女問題とかLGBTとか)。



ウォークな人々は自らをリベラルや民主主義・自由主義の擁護者だと考えているようですが、ウォークでない人々から見ると、彼らはむしろ20世紀の全体主義者の後継者にしか映りません。



日本においても、今後はウォークな人々がカルトとして扱われるようになることが期待されます。しかし、その先に待ち受ける状況がどのようなものになるかは予測がつきません。むしろ、ウォークがはびこっていた時代の方が、はるかにマシだったと感じる可能性すらあるでしょう。



今回は、音声入力とAIによる校正を組み合わせた方式で書いてみました。日本語入力システムの使いづらさを考えると、音声入力の正確さには驚かされます。

カッコウと猫

金曜日, 11月 29th, 2024

カッコウという鳥がいます。



カッコウは他の鳥の巣に卵を産み、その鳥にヒナを育てさせることで知られています。テレビ番組で、自分の子どもとは似ても似つかないカッコウのヒナを一生懸命に育てる鳥の姿を見て、不思議に思いました。なぜ違う種類のヒナだと気づかないのか、人間とは違うと感じました。



しかし、実は気づいているけど、思わず育ててしまうのかもしれません。



猫という動物がいます。
猫は人間のそばで暮らし、人間に世話をしてもらいます。SNSで猫の動画を何気なく見ていると、たくさんの猫の動画が出てきます。猫の姿や仕草は、人間が思わず世話をしてあげたくなるような気持ちにさせます。



このような気持ちになるのは、おそらく人間が子どもを育てるために持っている感情によるものだと思われます。しかし、猫は人間の子どもとは似ていないのに、上手にその感情を刺激してきます。



カッコウのヒナは、時には他のヒナを巣から落として、自分だけを育てさせます。



猫も人間の心に影響を与え「猫がいるから子どもはいらない」と思わせる場合は、似たような感じかもしれません。



さて、今回はAIを利用してわかり易い文章にしてもらいました。トゲがなくなりましたが、どんなもんでしょうか?

民法の経済的意味~ノーベル経済学賞にちなんで

月曜日, 10月 28th, 2024

今年のノーベル経済学賞は昨年読んだ
『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』
の著者でした。



で、読んでいるときに思いついた、東アジア地域での日本法の強制が、その後のその地域の発展に寄与したのではないかという考えを敷衍してみます(上記著作では、ナポレオン占領によるフランス法の強制が西欧の発展に寄与したする)。



前近代の権利関係というのは複雑です。
たとえば、ある集落の土地を買おうとします。
その土地の持ち主とだけ話をつければよいとはなかなかいかなさそうです。隣の土地の所有者の同意も必要だとなるかもしれないし、集落の有力者の承諾が必要だというかもしれない、または村の寄り合いでの許可が必要ということかもしれない。神社なりなんなりの宗教的な手続きも必要かもしれない。それはそれで、集落の円滑な運営ということを考えると合理性があるといえます。
1年のうちに一定期間、誰かが集落のだれかが一時利用する権利があるかもしれない。または放浪民の一時的な権利があるかもしれない。
そもそも、その土地の所有者が誰かということを一義的に決めるには、何らかの古文書を信用するしかないかもしれない。



ここに現代の民法を強制適用します。そうすると、登記簿だけみればよいことになります。登記簿に書かれた権利者を所有者と信用しても大方大丈夫だし、登記簿に書かれていない人たちの同意をとる必要はありません。



つまり金があるよそ者が集落の土地を簡単に手に入れることができることなります。
そのようなことを強制された集落は強い怒り生まれても当然でしょう。古くから続いた権利が消滅してしまうこともあるでしょうし、有力者や寄り合いの権威は地に落ちて大事なものが失われたと感じると思います。



でも、経済発展ということを考えると、権利関係の明確化がなされている社会は圧倒的に有利です。前近代的な権利関係のもとでは、工場を立てることすら困難を極めるでしょう。



たとえば、
「一般的に、インドで大規模な用地を取得するリスクは高いとされる。地権者の特定が難しく、取得契約を締結した後に、別の人物や企業が地権者として名乗りを上げて訴訟に発展することも珍しくない。」日経新聞の記事



なんてこととになります。



不動産がとてもわかり易いですが、私法全般について近代法を強制適用することには、相当手程度の経済的メリットがあったものと思います。

日本の民族宗教

日曜日, 7月 28th, 2024

日本人の多くは、自分たちを無宗教と自覚しています。海外で宗教記載欄があって多少狼狽するなんていうのが、よく出てくる話です。
それが日本人の特徴という自意識があるようですが、きっと中国人も同じなのだろうと思います。



中国人の宗教も、やや掴み難いところがあって、wikipediaでは「中国の民俗宗教」 というようなまとめ方をしています。



日本人の宗教も、仏教だ神道だというよりは、クリスマスを祝うこと等を含めて、日本の民族宗教というような位置づけがより正確なのかなと思っています。



自覚としては無宗教なのでしょうが、外からそう見えるかというのは別問題です。明治のはじめの頃、日本を旅行したイザベラ・バードの本で、通訳の伊藤が宗教をとても馬鹿にしていながら、体中にお守りを付けているというような話がでてきます。まあ、そんな感じにみえるのだろうと思います。
キリスト教だと異教徒、イスラム教だと多神教徒とかいう言い方があります。得体の知られない変なものを信仰している頭のおかしい奴らというニュアンスがある気がします。ほぼ、日本人が「宗教を信じている人」というのと同じニュアンスなのだろうと思います。
結局のところ、自分のやっていることは正しくて、それと違うことをやっているヤツはキチガイという人間の思考傾向があるということです。
「宗教は不合理だから云々」としたり顔で言う人もいます。人間の認識している世界なんていうのは、どのような頑張っだって不合理な空想の産物でしかないことを考えると、異教徒に対する嫌悪と同じ話だろうと思います。



世界史的に面白いのは、キリスト教イスラム教という伝播力の強い一神教が世界にどんどん伝わっていく中で、インド、中国、日本の3つの多神教文明がそれに耐え抜いているというところです。特にインドは、ムガール帝国というイスラム国家、イギリスというキリスト教国家に支配されながらもヒンズー教であり続けました。それだけ、何らかの強さがあるのだろうと思います。多くの多神教文化がキリスト強やイスラム教へ改宗して消滅していった中で、インド、中国、日本の民族宗教が残った理由は興味深いところです。
そんな興味の中、ヒンズー教の本を読んでいるのですが、ヒンズー教もイスラム教等の外部からヒンズー教と名付けられるまでは、自分たちの宗教について名前の自覚がなかったようです。つまり、インドの民族宗教ということなのだろうと思います。



山(里)での生活

日曜日, 6月 30th, 2024

10年以上の山小屋とのつきあいで、ある程度山での生活についてイメージはできていましたが、別の刺激を受けました。



地方の道を走っていると、ちょこちょこと集落があります。たまに、農業以外になにか生業はあるのだろうか、等と軽い興味も湧きます。とはいえ、だんだん農業もきつくなってきて、そこにとどまる理由がなければ、だんだんと人もいなくなってきます。NHKの「小さな旅」のように、元気なお年寄りが生き生きと地域を支え、若い世代もいて、なんていくとは限りません。



誰も住まなくなった家がだんだん増えてきて。まだ居住可能な家が、驚くほどお手軽な値段で売りに出ていることもあります。



そんな家を手に入れた方がいて、お邪魔しました。10軒から20軒くらいの集落で、大半は廃墟。小学校の廃墟もあるので、昔はそれなりに子どもがいたのだろうと思います。家は結構きれいで、大半の人が寝泊まりするのにストレスはないと思います。虫がそれほど多くないはずの高標高の山小屋でも、虫の侵入は多少気をつかいますが、標高のそれほど高くない山里なのに、何故か虫は気になりませんでした。



おそらく、このような家や集落は全国に山のようにあると思います。うまいこと有効利用できれば面白そうです。



『山に生きる人びと』 という本を読みました。いわゆる農民でなく、山で生きていた人について書いた本です。狩猟する人、木工品を作って売る人、キコリとか色々です。
面白いのは、平野民が山に逃げ込んだ場合は頑張って水田を作ろうとするが、もともと山の人たちは農耕をするとしても焼畑中心になるというあたりでした。また、ひとつの場所に留まるわけでなく、様々なところを移動し、山の7合目なりなんなり上は自由に使ってよういようなルールをもっているあたりは面白かったです。
道沿いの集落を眺めるときに、別の視点からみることができそうです。

3大哲学者

火曜日, 4月 30th, 2024

哲学と言われるものは、それが何を対象にしているのか、意味があるのかとか色々考えうるところです。
現時点での雰囲気としては、論理的な検討の対象になるけど、科学的な立証の対象にならないような事柄についての意見のようなもの、といったあたりでしょうか。
社会科学と名乗るものも、実際には科学的な立証の対象になってないことが多いのでしょうが、科学と名乗って、まるで何か科学的なことをしているように振る舞っているので、哲学とは区別されるようです。



そんな中で偉い哲学者は誰なのでしょうか?ということも気になります。
自分が日本の大学の哲学系の学生だった頃の雰囲気としては、まず相当年数カントかヘーゲルを徹底的に研究しないと、そもそも相手にされない。そのうえで、ギリシャ哲学には相当程度の敬意を払う。
哲学といえばドイツが本流でイギリス系は邪道。なので、ニーチェやハイデッガーは偉い。フランスの実存系も敬意が払われている。なんて感じでした。



そんな世界から離れて年月がたち、哲学以外の色々な本を読んできました。そういう中で、その本の課題を検討するために引用される過去の哲学者もいます(そう、現在の自然科学の世界で「引用」されることが大事なのです)。で、しっかり調べたわけではなく、あくまで感覚的なものなのですが、そういう引用のされかたからみた3大哲学者は、プラトン、ヒューム、カントといったあたりかなと思います。



やはりカントは偉いですね。私も人生で一番衝撃を受けた本は純粋理性批判です(どこまで理解できたかは別として)。何と言っても、理屈だけであれだけ複雑な論理を組み立てて、しかも何か極めてもっともらしい。哲学なんてものが、一つの意味あるものとして扱われているのは、カントがいたからではないかと思います。
量子力学を前提に世界を考える、なんて本になると、やはりカントの認識論がとても親和性が高くなってきて検討の対象になります



プラトンもよく出てきます。大抵の問題はソクラテス・プラトンで検討されていると言ったりするだけのことがあります。なお、ソクラテスに著作はなく、ソクラテスが何をしたかはプラトンが書いています。で、プラトンの著作の大半の主人公はソクラテスです。そんなわけで、はじめのほうがソクラテスの思想、後半がプラトンの思想とされたりします。



あとは、ヒュームです。マイナーですが、イギリス経験論の集大成とされていたりします。経験論を突き詰めた結果、鋭い懐疑論者になりました。懐疑論者として、正しいことをたくさん言っています。ヒュームの言っていることに反している時点でアウトなのですが、それがなかなか難しい。



なんてところです。ヘーゲルが出てきた記憶はほとんどないですね。ヘーゲルだったりハイデガーだったり、フランスの実存系だったりは、弁証法ということをいう人達です。正直、私は、この系統は説得力を感じませんでした。「Aという考えとBという考えが弁証法的に云々してCという考えになる」とか言うのですがなぜDでなくCなのかは一切説明がないので、なんだかよくわからないのです。
今読んでいる本で弁証法系の人たちの考えがでてこなくてほっとしています。



まあ、単に様々な本を書く人が主に経由する学歴において、基本的教養として学ぶものとしてプラトン、ヒューム、カントは出てくるけど弁証法系はでてこないので、引用もされないというだけのことかもしれませんが。