Woke(ウォーク)

1月 30th, 2025

トランプ大統領が 再選された理由の一つ にウォークに対する反発があるようです。
ウォークという言葉はそれほど馴染みがないのかもしれません。 私も、 この半年ぐらいの間に知った言葉です。
私が『社会改善運動をするヤツラ』と勝手に名付けていたものと、ほとんど同じような感じなんだと思っています。



今まで普通に許されていた行為が、いつのまにか許しがたい行為になって、 さらには犯罪になってしまう(子供の躾とかパワハラとか)。
ウォークな人たちの価値観に反することを言ったら最後、許しがたい 失言として、撤回 や謝罪を迫られる(男女問題とかLGBTとか)。



ウォークな人々は自らをリベラルや民主主義・自由主義の擁護者だと考えているようですが、ウォークでない人々から見ると、彼らはむしろ20世紀の全体主義者の後継者にしか映りません。



日本においても、今後はウォークな人々がカルトとして扱われるようになることが期待されます。しかし、その先に待ち受ける状況がどのようなものになるかは予測がつきません。むしろ、ウォークがはびこっていた時代の方が、はるかにマシだったと感じる可能性すらあるでしょう。



今回は、音声入力とAIによる校正を組み合わせた方式で書いてみました。日本語入力システムの使いづらさを考えると、音声入力の正確さには驚かされます。

今年読んだ本2024

12月 30th, 2024

『疲労とはなにか すべてはウイルスが知っていた』



うつ病の原因は、持続感染しているヘルペスウィルスが脳の特定の部位に行ってしまうこと、というような新説。以前に日経新聞の記事で知って興味を持っていましたが、それを一般向けに詳説した本。
とても面白かったです。



『戦争と交渉の経済学:人はなぜ戦うのか』



1年経って、ほとんど記憶が・・・。



『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』



仏教と言われているものは別として、あらためてブッダの思想とは何なのか押さえたくて読んだ本。
ブッダが大昔のインド人であり、だから現代の価値観から見て素晴らしいかどうか判断することはあまり意味がないことを強調していてなかなかよい。
輪廻を前提とした世界観の中での思想なので、輪廻を真摯に信じていない人にとってはブッダの思想がいかに偉大かを理解するのは難しいということだろうと思います。



『万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~』



文章はわかりにくいし、論理構成の説得力もないけど、結果としてこの1年読んだ本の中ではもっとも刺激的だったかも。
西洋で自由とか平等とか言い出したのはアメリカインディアンのお陰なんていうあたりも、考えたこともなかったので面白い。



『山に生きる人びと 』



昨年オーディブルで聞いて中々面白かった宮本常一の本(まあ、読みにくくて長い『万物の黎明』で消耗したので、気楽に新書程度のものを読みたかったということも大きい)。
日本のことでも、かなり異文化な感じがして面白い。



『中国経済の謎―なぜバブルは弾けないのか? 』



日本のバブルはわざと崩壊させたんだという分析が印象的でした。



『海に生きる人びと』



それなりに面白かったが、山に生きる人々のほうが面白かった。



『ヒンドゥー教 インドの聖と俗 』



ヨガをはじめヒンドゥー教はだいぶ我々の生活にも影響しているけれど、ヒンドゥーという言葉は仏教、キリスト教、イスラム教あたりよりされにエキゾチックな感じもします。経済的生活・家庭的生活をしっかりこなした上で、その後、世捨て人になっていくという流れも、なかなかです。



『運 ドン・キホーテ創業者「最強の遺言」』



経営的なやる気をだすために、久々にこの手の本。でも、エネルギー量がでかすぎて、なんであれ何か成し遂げる人という感じがします。



『マネー・コネクション あなたのビジネスを加速させる「戦略」の見つけ方』



経営的なやる気をだすために、久々にこの手の本。以前もそうだけど、マーケティング系の本は、いまいち刺激が少ない(私の受容体の問題の気もします)。



『イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む』



この企画はなかなか面白い。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』は以前読んでかなり面白かったが、それを、最近ちょこちょこ読んでいる宮本常一が解説するという本。ノミがすごかった話とか、馬が小さかったり、しつけられてなくてあまり役に立ってなかった話等。



『ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~ 』



今度のアメリカ副大統領バンス氏が書いた本。私も公立育ちなので、多少似た感覚を味わっていますが、だいぶ強烈です。
今度のアメリカの幹部はイーロン・マスクをはじめ多士済々ですが、副大統領もすごそうです。





オーディブルは、ひたすら『池上彰の世界の見方』シリーズでした。聞き流す上で、知っていることと知らないことの割合がちょうどよいです。東南アジア、中東、インド、中南米、ロシア、イギリスとEU,中国・香港・台湾、ドイツとEUあたりを聞きました。

カッコウと猫

11月 29th, 2024

カッコウという鳥がいます。



カッコウは他の鳥の巣に卵を産み、その鳥にヒナを育てさせることで知られています。テレビ番組で、自分の子どもとは似ても似つかないカッコウのヒナを一生懸命に育てる鳥の姿を見て、不思議に思いました。なぜ違う種類のヒナだと気づかないのか、人間とは違うと感じました。



しかし、実は気づいているけど、思わず育ててしまうのかもしれません。



猫という動物がいます。
猫は人間のそばで暮らし、人間に世話をしてもらいます。SNSで猫の動画を何気なく見ていると、たくさんの猫の動画が出てきます。猫の姿や仕草は、人間が思わず世話をしてあげたくなるような気持ちにさせます。



このような気持ちになるのは、おそらく人間が子どもを育てるために持っている感情によるものだと思われます。しかし、猫は人間の子どもとは似ていないのに、上手にその感情を刺激してきます。



カッコウのヒナは、時には他のヒナを巣から落として、自分だけを育てさせます。



猫も人間の心に影響を与え「猫がいるから子どもはいらない」と思わせる場合は、似たような感じかもしれません。



さて、今回はAIを利用してわかり易い文章にしてもらいました。トゲがなくなりましたが、どんなもんでしょうか?

民法の経済的意味~ノーベル経済学賞にちなんで

10月 28th, 2024

今年のノーベル経済学賞は昨年読んだ
『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』
の著者でした。



で、読んでいるときに思いついた、東アジア地域での日本法の強制が、その後のその地域の発展に寄与したのではないかという考えを敷衍してみます(上記著作では、ナポレオン占領によるフランス法の強制が西欧の発展に寄与したする)。



前近代の権利関係というのは複雑です。
たとえば、ある集落の土地を買おうとします。
その土地の持ち主とだけ話をつければよいとはなかなかいかなさそうです。隣の土地の所有者の同意も必要だとなるかもしれないし、集落の有力者の承諾が必要だというかもしれない、または村の寄り合いでの許可が必要ということかもしれない。神社なりなんなりの宗教的な手続きも必要かもしれない。それはそれで、集落の円滑な運営ということを考えると合理性があるといえます。
1年のうちに一定期間、誰かが集落のだれかが一時利用する権利があるかもしれない。または放浪民の一時的な権利があるかもしれない。
そもそも、その土地の所有者が誰かということを一義的に決めるには、何らかの古文書を信用するしかないかもしれない。



ここに現代の民法を強制適用します。そうすると、登記簿だけみればよいことになります。登記簿に書かれた権利者を所有者と信用しても大方大丈夫だし、登記簿に書かれていない人たちの同意をとる必要はありません。



つまり金があるよそ者が集落の土地を簡単に手に入れることができることなります。
そのようなことを強制された集落は強い怒り生まれても当然でしょう。古くから続いた権利が消滅してしまうこともあるでしょうし、有力者や寄り合いの権威は地に落ちて大事なものが失われたと感じると思います。



でも、経済発展ということを考えると、権利関係の明確化がなされている社会は圧倒的に有利です。前近代的な権利関係のもとでは、工場を立てることすら困難を極めるでしょう。



たとえば、
「一般的に、インドで大規模な用地を取得するリスクは高いとされる。地権者の特定が難しく、取得契約を締結した後に、別の人物や企業が地権者として名乗りを上げて訴訟に発展することも珍しくない。」日経新聞の記事



なんてこととになります。



不動産がとてもわかり易いですが、私法全般について近代法を強制適用することには、相当手程度の経済的メリットがあったものと思います。

マイタウン法律事務所武蔵小杉事務所OPEN

9月 30th, 2024

久々ですが、新規事務所OPENです。



川崎市中原区の武蔵小杉の駅からすぐです。
アクセス



弁護士経験15年程の藤澤弁護士が常駐します。





2024アジアンラリー(ついに入賞?)

8月 30th, 2024

今年もアジアンラリー(AXCR)に出場しました。
本来は、タイからマレーシアの予定だったのですが、国境付近に危険が発生したとのことで、今年はタイだけでの開催でした。



3度目の出場です。1年目はかなりの緊張で、心の底で「中止になるといいなあ」という気持ちが常にありました。2年目も、タイからラオスという難コースが予測されたこともあって、それなりに強い緊張で望みました。



今年は、タイ一国。しかも、同じ場所に戻ってくる(ループと言ったりする)日程も多いので移動は楽そう。バイク参加者の多くと知り合いとなっているので、そういう面でも気が楽。なんて感じで、過去2回に比べると、参加前から緊張よりは楽しみ感が強かったです。



と油断していたせいか、今年は色々とありました。



アジアンラリーといえばスコールという話もあったのですが、はじめの2年はスコールをもろにくらうことはありませんでした。が、今年はぐしゃぐしゃになりました。走っていると勝手に口の中に水が入ってくる感じでした。まあ、スコール経験していないのでは、アジアンラリーに出場した感がないと想っていたので、今となってはよい経験です。



また、多数回参加者が楽しそうに話すのは、トラブルが発生して帰れなくなりそうになり、必死に現地の人に交渉してなんとかバイクを運んでもらったり、場合によっては村で一晩泊まったりというアクシデントです。
正直、私はそんな経験はしたくないので、安全運行第一で、やばくなったら途中でやめるというスタンスです。が
4日目は、ラリーとは思えないくらい走行困難な道でした。なかなか難しい登り坂をなんとか順調に登った先で、私より明らかに技術が高い2名(最終的に1位と2位になった2名)が苦労して登れていません。これは困ったなと思いながら、自分なりのやり方で少しずつ登っていきます。が、暑すぎます。想像つきにくいと思うのですが、困難な道を少しずつバイクで登るのはものすごく体力を消耗します。
このときは、バイクのすごく後ろに座って、バイクを前後に揺らしながらうまくクラッチとアクセルをあわせてうまくバイクが進んでくれたら、それに合わせてて進むけど、下が石ころだらけでバランスを失うのですぐに倒れるか、倒れそうになるバイクを何とか支えてとどまる。これで3~5メートル位進む。
これを10回くらい繰り返せば、上まで行けるかもと思いましたが、あと3回やったら熱中症で動けなくなりそうでした。こんな山の中で熱中症で動けなくなったらどうにもなりません。「トップの2人があれだけ苦労しているんだから、他の人がここを登るのは無理だろう」と判断して下山を開始します。
そこに追いついてきた4輪のトップが現れます。道がせまいのでバイクをよける必要があります。私は体力的に限界に近かったので、バイクを林の中に押し上げる気力はなく道の端に寄せました。4輪が通ります。横倒し気味のバイクのタイヤを踏んでいきます。「あらー、まあタイヤだから大丈夫だろう」そんなことが2回続いて、少し力が出てきたので何とかバイクを林の中に押し上げます。
ブレーキが壊れている。前後とも。ジ・エンドというやつです。



主催者に連絡したりしましたが、夕方になってもバイクと人の回収の車がくる気配はありません。こんな困難なところに、普通の回収の車が上がってこれるのかなあ、と思ったりします(あとで知りましたが、ひっくり返ってしまった車もあったようです)。最悪この山のなかで一晩過ごすのかなあと思っていると、同じく故障して一緒に待機していたライダーがサソリを発見したりします。ちょっと一晩過ごすのは危険かも。



そこに壊れた車を引っ張りつつ、別のバイクを1台回収したタイの4輪があらわれます。一緒にいたライダーがお願いして荷台に乗せてもらえることになりました。車がひっくり返るような急坂を下る車の荷台はかなりスリリングでしたが、無事、帰り着くことができました(本当にありがとうございました!)



と長々と書きましたが、私もアジアンラリーらしい、アクシデントを経験しました。



で、最後に思わぬ展開があって、なんと総合6位クラス3位という成績でした(アジアンラリーのサイトはしょっちゅう内容がかわるので、記載時は順位がでてますが、そのうち変わるだろうと思います)。
アジアンラリー自体はだいぶ格式の高い国際レースです。アジアンラリーをニュース検索するとそれなりに出てきます。つまり、アジアンラリーでの成績・実績はニュースになるような大会です(ちなみに上記4日目はこんな記事も(「バイクの墓場とも言える状況だった」)。
そんな大会での入賞というのは、ちょっと不思議な感じもありますが、思わぬ記念が手に入ってしまった感じです(なお、私が速くなったわけでないことだけは確かです。ブレーキが壊れたバイクを深夜に頑張って直した甲斐はあったかも)。



日本の民族宗教

7月 28th, 2024

日本人の多くは、自分たちを無宗教と自覚しています。海外で宗教記載欄があって多少狼狽するなんていうのが、よく出てくる話です。
それが日本人の特徴という自意識があるようですが、きっと中国人も同じなのだろうと思います。



中国人の宗教も、やや掴み難いところがあって、wikipediaでは「中国の民俗宗教」 というようなまとめ方をしています。



日本人の宗教も、仏教だ神道だというよりは、クリスマスを祝うこと等を含めて、日本の民族宗教というような位置づけがより正確なのかなと思っています。



自覚としては無宗教なのでしょうが、外からそう見えるかというのは別問題です。明治のはじめの頃、日本を旅行したイザベラ・バードの本で、通訳の伊藤が宗教をとても馬鹿にしていながら、体中にお守りを付けているというような話がでてきます。まあ、そんな感じにみえるのだろうと思います。
キリスト教だと異教徒、イスラム教だと多神教徒とかいう言い方があります。得体の知られない変なものを信仰している頭のおかしい奴らというニュアンスがある気がします。ほぼ、日本人が「宗教を信じている人」というのと同じニュアンスなのだろうと思います。
結局のところ、自分のやっていることは正しくて、それと違うことをやっているヤツはキチガイという人間の思考傾向があるということです。
「宗教は不合理だから云々」としたり顔で言う人もいます。人間の認識している世界なんていうのは、どのような頑張っだって不合理な空想の産物でしかないことを考えると、異教徒に対する嫌悪と同じ話だろうと思います。



世界史的に面白いのは、キリスト教イスラム教という伝播力の強い一神教が世界にどんどん伝わっていく中で、インド、中国、日本の3つの多神教文明がそれに耐え抜いているというところです。特にインドは、ムガール帝国というイスラム国家、イギリスというキリスト教国家に支配されながらもヒンズー教であり続けました。それだけ、何らかの強さがあるのだろうと思います。多くの多神教文化がキリスト強やイスラム教へ改宗して消滅していった中で、インド、中国、日本の民族宗教が残った理由は興味深いところです。
そんな興味の中、ヒンズー教の本を読んでいるのですが、ヒンズー教もイスラム教等の外部からヒンズー教と名付けられるまでは、自分たちの宗教について名前の自覚がなかったようです。つまり、インドの民族宗教ということなのだろうと思います。



山(里)での生活

6月 30th, 2024

10年以上の山小屋とのつきあいで、ある程度山での生活についてイメージはできていましたが、別の刺激を受けました。



地方の道を走っていると、ちょこちょこと集落があります。たまに、農業以外になにか生業はあるのだろうか、等と軽い興味も湧きます。とはいえ、だんだん農業もきつくなってきて、そこにとどまる理由がなければ、だんだんと人もいなくなってきます。NHKの「小さな旅」のように、元気なお年寄りが生き生きと地域を支え、若い世代もいて、なんていくとは限りません。



誰も住まなくなった家がだんだん増えてきて。まだ居住可能な家が、驚くほどお手軽な値段で売りに出ていることもあります。



そんな家を手に入れた方がいて、お邪魔しました。10軒から20軒くらいの集落で、大半は廃墟。小学校の廃墟もあるので、昔はそれなりに子どもがいたのだろうと思います。家は結構きれいで、大半の人が寝泊まりするのにストレスはないと思います。虫がそれほど多くないはずの高標高の山小屋でも、虫の侵入は多少気をつかいますが、標高のそれほど高くない山里なのに、何故か虫は気になりませんでした。



おそらく、このような家や集落は全国に山のようにあると思います。うまいこと有効利用できれば面白そうです。



『山に生きる人びと』 という本を読みました。いわゆる農民でなく、山で生きていた人について書いた本です。狩猟する人、木工品を作って売る人、キコリとか色々です。
面白いのは、平野民が山に逃げ込んだ場合は頑張って水田を作ろうとするが、もともと山の人たちは農耕をするとしても焼畑中心になるというあたりでした。また、ひとつの場所に留まるわけでなく、様々なところを移動し、山の7合目なりなんなり上は自由に使ってよういようなルールをもっているあたりは面白かったです。
道沿いの集落を眺めるときに、別の視点からみることができそうです。

感想:万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~

5月 31st, 2024

最近、何かが劣化したのか、どうにもこのブログを書いていて冴えがない。
そこで、安易に本の感想を足場にしてみようという試み。



万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~



書いてあるとされる内容については、中々面白い。
人間社会は狩猟採集をしているときは平等であったが、農耕をはじめ、都市が形成されるにしたがって社会が複雑化し、富の蓄積、統治機構の整備によって貧富の差や身分の差が生まれていった。
という一般的な考えは、考古学・人類学的な研究からすると出鱈目である。
というあたり。



ただし、まず文章が(尋常でなく)わかりにくい。原文のせいなのか、翻訳のせいなのか(おそらく前者のせいで、まともな翻訳が困難なのかなと推測)、文章の理解が困難。国語問題の題材にされ、傍線部の「それ」が指すものはなにか、なんて問題をだされたときには、固まってしまう。なので、文章の自体をしっかり把握するというよりは、大方全体的な意味を推し量りながら読み進めるという読み方をするしかない。
ちょうどこの本を読んでいる時期に、弁護士会新聞の校正の会議があって、「この原稿は意味がわからない。直さなきゃ」なんてやってましたが、この本を解読するモードになっていた私にとっては十分にわかりやす文章でした。



さらに、主張を論証するには認知機能に問題がある感じ。文系学者だとたまにあるパターン。ある章で何らかの可能性が示唆されていたとしたら、次の章ではそれは証明された事実として扱われているような感じ。
ということで主張的な部分はほとんど説得力はない。もっとも上記のような読み方をしていたので、もしかしたらしっかり論証されていることに気が付かなかった可能性もあり



が、提示されている事実は興味深いものが多いことは事実。論理的にみれば「すべて〇〇は〇〇である」ということを反証するには、それに当てはまらない事実を一つ提示すればよくてごちゃごちゃ論証する必要ない。ということで、極めて平等な都市遺跡があった、なんて事実の提示はとても興味深い。
また啓蒙思想はアメリカ先住民の自由な社会との接触により刺激から生まれてきたというのも面白い。



ある種の専制的な王は周囲の人の世話をしたいという欲求により生み出されたという話も示唆に富む(ただし、本当にそのようなことが書いてあったのか、書いてあったとして根拠があるのか推測なのかも曖昧な印象だが)。
私の思いつきとしては、日本人的な宗教感覚はこの世話をしたいという欲求と親和性がある気がする(地蔵の服をせっせと変えたり、仏壇のお供え物をしたり)。動物との関わりも当然実利的なものだけでなく、世話をしたい欲求があるだろう。つまり、政治的なもの、宗教的なもの、その他諸々の人類史において、敵を倒す、秩序を乱すものを排除する、食料確保の要求を満たす、見栄を張る等の典型的な要因以外に、世話をしたい欲求というのも大きな重要性を持っているのではないかという気がする。そして、本書で(ほぼ根拠を示さずに)ちょこちょこ示唆する女性の先史時代におけるイノベーティブな役割については、この世話をする欲求という観点から再構成するともう少し方向性が出てくるのではないかという気がした。



大著(つまり長い)である上に読みにくいので2ヶ月以上とられた気がしますが、なんとか読み終わりました。

3大哲学者

4月 30th, 2024

哲学と言われるものは、それが何を対象にしているのか、意味があるのかとか色々考えうるところです。
現時点での雰囲気としては、論理的な検討の対象になるけど、科学的な立証の対象にならないような事柄についての意見のようなもの、といったあたりでしょうか。
社会科学と名乗るものも、実際には科学的な立証の対象になってないことが多いのでしょうが、科学と名乗って、まるで何か科学的なことをしているように振る舞っているので、哲学とは区別されるようです。



そんな中で偉い哲学者は誰なのでしょうか?ということも気になります。
自分が日本の大学の哲学系の学生だった頃の雰囲気としては、まず相当年数カントかヘーゲルを徹底的に研究しないと、そもそも相手にされない。そのうえで、ギリシャ哲学には相当程度の敬意を払う。
哲学といえばドイツが本流でイギリス系は邪道。なので、ニーチェやハイデッガーは偉い。フランスの実存系も敬意が払われている。なんて感じでした。



そんな世界から離れて年月がたち、哲学以外の色々な本を読んできました。そういう中で、その本の課題を検討するために引用される過去の哲学者もいます(そう、現在の自然科学の世界で「引用」されることが大事なのです)。で、しっかり調べたわけではなく、あくまで感覚的なものなのですが、そういう引用のされかたからみた3大哲学者は、プラトン、ヒューム、カントといったあたりかなと思います。



やはりカントは偉いですね。私も人生で一番衝撃を受けた本は純粋理性批判です(どこまで理解できたかは別として)。何と言っても、理屈だけであれだけ複雑な論理を組み立てて、しかも何か極めてもっともらしい。哲学なんてものが、一つの意味あるものとして扱われているのは、カントがいたからではないかと思います。
量子力学を前提に世界を考える、なんて本になると、やはりカントの認識論がとても親和性が高くなってきて検討の対象になります



プラトンもよく出てきます。大抵の問題はソクラテス・プラトンで検討されていると言ったりするだけのことがあります。なお、ソクラテスに著作はなく、ソクラテスが何をしたかはプラトンが書いています。で、プラトンの著作の大半の主人公はソクラテスです。そんなわけで、はじめのほうがソクラテスの思想、後半がプラトンの思想とされたりします。



あとは、ヒュームです。マイナーですが、イギリス経験論の集大成とされていたりします。経験論を突き詰めた結果、鋭い懐疑論者になりました。懐疑論者として、正しいことをたくさん言っています。ヒュームの言っていることに反している時点でアウトなのですが、それがなかなか難しい。



なんてところです。ヘーゲルが出てきた記憶はほとんどないですね。ヘーゲルだったりハイデガーだったり、フランスの実存系だったりは、弁証法ということをいう人達です。正直、私は、この系統は説得力を感じませんでした。「Aという考えとBという考えが弁証法的に云々してCという考えになる」とか言うのですがなぜDでなくCなのかは一切説明がないので、なんだかよくわからないのです。
今読んでいる本で弁証法系の人たちの考えがでてこなくてほっとしています。



まあ、単に様々な本を書く人が主に経由する学歴において、基本的教養として学ぶものとしてプラトン、ヒューム、カントは出てくるけど弁証法系はでてこないので、引用もされないというだけのことかもしれませんが。