2024アジアンラリー(ついに入賞?)
8月 30th, 2024今年もアジアンラリー(AXCR)に出場しました。
本来は、タイからマレーシアの予定だったのですが、国境付近に危険が発生したとのことで、今年はタイだけでの開催でした。
3度目の出場です。1年目はかなりの緊張で、心の底で「中止になるといいなあ」という気持ちが常にありました。2年目も、タイからラオスという難コースが予測されたこともあって、それなりに強い緊張で望みました。
今年は、タイ一国。しかも、同じ場所に戻ってくる(ループと言ったりする)日程も多いので移動は楽そう。バイク参加者の多くと知り合いとなっているので、そういう面でも気が楽。なんて感じで、過去2回に比べると、参加前から緊張よりは楽しみ感が強かったです。
と油断していたせいか、今年は色々とありました。
アジアンラリーといえばスコールという話もあったのですが、はじめの2年はスコールをもろにくらうことはありませんでした。が、今年はぐしゃぐしゃになりました。走っていると勝手に口の中に水が入ってくる感じでした。まあ、スコール経験していないのでは、アジアンラリーに出場した感がないと想っていたので、今となってはよい経験です。
また、多数回参加者が楽しそうに話すのは、トラブルが発生して帰れなくなりそうになり、必死に現地の人に交渉してなんとかバイクを運んでもらったり、場合によっては村で一晩泊まったりというアクシデントです。
正直、私はそんな経験はしたくないので、安全運行第一で、やばくなったら途中でやめるというスタンスです。が
4日目は、ラリーとは思えないくらい走行困難な道でした。なかなか難しい登り坂をなんとか順調に登った先で、私より明らかに技術が高い2名(最終的に1位と2位になった2名)が苦労して登れていません。これは困ったなと思いながら、自分なりのやり方で少しずつ登っていきます。が、暑すぎます。想像つきにくいと思うのですが、困難な道を少しずつバイクで登るのはものすごく体力を消耗します。
このときは、バイクのすごく後ろに座って、バイクを前後に揺らしながらうまくクラッチとアクセルをあわせてうまくバイクが進んでくれたら、それに合わせてて進むけど、下が石ころだらけでバランスを失うのですぐに倒れるか、倒れそうになるバイクを何とか支えてとどまる。これで3~5メートル位進む。
これを10回くらい繰り返せば、上まで行けるかもと思いましたが、あと3回やったら熱中症で動けなくなりそうでした。こんな山の中で熱中症で動けなくなったらどうにもなりません。「トップの2人があれだけ苦労しているんだから、他の人がここを登るのは無理だろう」と判断して下山を開始します。
そこに追いついてきた4輪のトップが現れます。道がせまいのでバイクをよける必要があります。私は体力的に限界に近かったので、バイクを林の中に押し上げる気力はなく道の端に寄せました。4輪が通ります。横倒し気味のバイクのタイヤを踏んでいきます。「あらー、まあタイヤだから大丈夫だろう」そんなことが2回続いて、少し力が出てきたので何とかバイクを林の中に押し上げます。
ブレーキが壊れている。前後とも。ジ・エンドというやつです。
主催者に連絡したりしましたが、夕方になってもバイクと人の回収の車がくる気配はありません。こんな困難なところに、普通の回収の車が上がってこれるのかなあ、と思ったりします(あとで知りましたが、ひっくり返ってしまった車もあったようです)。最悪この山のなかで一晩過ごすのかなあと思っていると、同じく故障して一緒に待機していたライダーがサソリを発見したりします。ちょっと一晩過ごすのは危険かも。
そこに壊れた車を引っ張りつつ、別のバイクを1台回収したタイの4輪があらわれます。一緒にいたライダーがお願いして荷台に乗せてもらえることになりました。車がひっくり返るような急坂を下る車の荷台はかなりスリリングでしたが、無事、帰り着くことができました(本当にありがとうございました!)
と長々と書きましたが、私もアジアンラリーらしい、アクシデントを経験しました。
で、最後に思わぬ展開があって、なんと総合6位クラス3位という成績でした(アジアンラリーのサイトはしょっちゅう内容がかわるので、記載時は順位がでてますが、そのうち変わるだろうと思います)。
アジアンラリー自体はだいぶ格式の高い国際レースです。アジアンラリーをニュース検索するとそれなりに出てきます。つまり、アジアンラリーでの成績・実績はニュースになるような大会です(ちなみに上記4日目はこんな記事も(「バイクの墓場とも言える状況だった」)。
そんな大会での入賞というのは、ちょっと不思議な感じもありますが、思わぬ記念が手に入ってしまった感じです(なお、私が速くなったわけでないことだけは確かです。ブレーキが壊れたバイクを深夜に頑張って直した甲斐はあったかも)。
日本の民族宗教
7月 28th, 2024日本人の多くは、自分たちを無宗教と自覚しています。海外で宗教記載欄があって多少狼狽するなんていうのが、よく出てくる話です。
それが日本人の特徴という自意識があるようですが、きっと中国人も同じなのだろうと思います。
中国人の宗教も、やや掴み難いところがあって、wikipediaでは「中国の民俗宗教」 というようなまとめ方をしています。
日本人の宗教も、仏教だ神道だというよりは、クリスマスを祝うこと等を含めて、日本の民族宗教というような位置づけがより正確なのかなと思っています。
自覚としては無宗教なのでしょうが、外からそう見えるかというのは別問題です。明治のはじめの頃、日本を旅行したイザベラ・バードの本で、通訳の伊藤が宗教をとても馬鹿にしていながら、体中にお守りを付けているというような話がでてきます。まあ、そんな感じにみえるのだろうと思います。
キリスト教だと異教徒、イスラム教だと多神教徒とかいう言い方があります。得体の知られない変なものを信仰している頭のおかしい奴らというニュアンスがある気がします。ほぼ、日本人が「宗教を信じている人」というのと同じニュアンスなのだろうと思います。
結局のところ、自分のやっていることは正しくて、それと違うことをやっているヤツはキチガイという人間の思考傾向があるということです。
「宗教は不合理だから云々」としたり顔で言う人もいます。人間の認識している世界なんていうのは、どのような頑張っだって不合理な空想の産物でしかないことを考えると、異教徒に対する嫌悪と同じ話だろうと思います。
世界史的に面白いのは、キリスト教イスラム教という伝播力の強い一神教が世界にどんどん伝わっていく中で、インド、中国、日本の3つの多神教文明がそれに耐え抜いているというところです。特にインドは、ムガール帝国というイスラム国家、イギリスというキリスト教国家に支配されながらもヒンズー教であり続けました。それだけ、何らかの強さがあるのだろうと思います。多くの多神教文化がキリスト強やイスラム教へ改宗して消滅していった中で、インド、中国、日本の民族宗教が残った理由は興味深いところです。
そんな興味の中、ヒンズー教の本を読んでいるのですが、ヒンズー教もイスラム教等の外部からヒンズー教と名付けられるまでは、自分たちの宗教について名前の自覚がなかったようです。つまり、インドの民族宗教ということなのだろうと思います。
山(里)での生活
6月 30th, 202410年以上の山小屋とのつきあいで、ある程度山での生活についてイメージはできていましたが、別の刺激を受けました。
地方の道を走っていると、ちょこちょこと集落があります。たまに、農業以外になにか生業はあるのだろうか、等と軽い興味も湧きます。とはいえ、だんだん農業もきつくなってきて、そこにとどまる理由がなければ、だんだんと人もいなくなってきます。NHKの「小さな旅」のように、元気なお年寄りが生き生きと地域を支え、若い世代もいて、なんていくとは限りません。
誰も住まなくなった家がだんだん増えてきて。まだ居住可能な家が、驚くほどお手軽な値段で売りに出ていることもあります。
そんな家を手に入れた方がいて、お邪魔しました。10軒から20軒くらいの集落で、大半は廃墟。小学校の廃墟もあるので、昔はそれなりに子どもがいたのだろうと思います。家は結構きれいで、大半の人が寝泊まりするのにストレスはないと思います。虫がそれほど多くないはずの高標高の山小屋でも、虫の侵入は多少気をつかいますが、標高のそれほど高くない山里なのに、何故か虫は気になりませんでした。
おそらく、このような家や集落は全国に山のようにあると思います。うまいこと有効利用できれば面白そうです。
『山に生きる人びと』 という本を読みました。いわゆる農民でなく、山で生きていた人について書いた本です。狩猟する人、木工品を作って売る人、キコリとか色々です。
面白いのは、平野民が山に逃げ込んだ場合は頑張って水田を作ろうとするが、もともと山の人たちは農耕をするとしても焼畑中心になるというあたりでした。また、ひとつの場所に留まるわけでなく、様々なところを移動し、山の7合目なりなんなり上は自由に使ってよういようなルールをもっているあたりは面白かったです。
道沿いの集落を眺めるときに、別の視点からみることができそうです。
感想:万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~
5月 31st, 2024最近、何かが劣化したのか、どうにもこのブログを書いていて冴えがない。
そこで、安易に本の感想を足場にしてみようという試み。
書いてあるとされる内容については、中々面白い。
人間社会は狩猟採集をしているときは平等であったが、農耕をはじめ、都市が形成されるにしたがって社会が複雑化し、富の蓄積、統治機構の整備によって貧富の差や身分の差が生まれていった。
という一般的な考えは、考古学・人類学的な研究からすると出鱈目である。
というあたり。
ただし、まず文章が(尋常でなく)わかりにくい。原文のせいなのか、翻訳のせいなのか(おそらく前者のせいで、まともな翻訳が困難なのかなと推測)、文章の理解が困難。国語問題の題材にされ、傍線部の「それ」が指すものはなにか、なんて問題をだされたときには、固まってしまう。なので、文章の自体をしっかり把握するというよりは、大方全体的な意味を推し量りながら読み進めるという読み方をするしかない。
ちょうどこの本を読んでいる時期に、弁護士会新聞の校正の会議があって、「この原稿は意味がわからない。直さなきゃ」なんてやってましたが、この本を解読するモードになっていた私にとっては十分にわかりやす文章でした。
さらに、主張を論証するには認知機能に問題がある感じ。文系学者だとたまにあるパターン。ある章で何らかの可能性が示唆されていたとしたら、次の章ではそれは証明された事実として扱われているような感じ。
ということで主張的な部分はほとんど説得力はない。もっとも上記のような読み方をしていたので、もしかしたらしっかり論証されていることに気が付かなかった可能性もあり
が、提示されている事実は興味深いものが多いことは事実。論理的にみれば「すべて〇〇は〇〇である」ということを反証するには、それに当てはまらない事実を一つ提示すればよくてごちゃごちゃ論証する必要ない。ということで、極めて平等な都市遺跡があった、なんて事実の提示はとても興味深い。
また啓蒙思想はアメリカ先住民の自由な社会との接触により刺激から生まれてきたというのも面白い。
ある種の専制的な王は周囲の人の世話をしたいという欲求により生み出されたという話も示唆に富む(ただし、本当にそのようなことが書いてあったのか、書いてあったとして根拠があるのか推測なのかも曖昧な印象だが)。
私の思いつきとしては、日本人的な宗教感覚はこの世話をしたいという欲求と親和性がある気がする(地蔵の服をせっせと変えたり、仏壇のお供え物をしたり)。動物との関わりも当然実利的なものだけでなく、世話をしたい欲求があるだろう。つまり、政治的なもの、宗教的なもの、その他諸々の人類史において、敵を倒す、秩序を乱すものを排除する、食料確保の要求を満たす、見栄を張る等の典型的な要因以外に、世話をしたい欲求というのも大きな重要性を持っているのではないかという気がする。そして、本書で(ほぼ根拠を示さずに)ちょこちょこ示唆する女性の先史時代におけるイノベーティブな役割については、この世話をする欲求という観点から再構成するともう少し方向性が出てくるのではないかという気がした。
大著(つまり長い)である上に読みにくいので2ヶ月以上とられた気がしますが、なんとか読み終わりました。
3大哲学者
4月 30th, 2024哲学と言われるものは、それが何を対象にしているのか、意味があるのかとか色々考えうるところです。
現時点での雰囲気としては、論理的な検討の対象になるけど、科学的な立証の対象にならないような事柄についての意見のようなもの、といったあたりでしょうか。
社会科学と名乗るものも、実際には科学的な立証の対象になってないことが多いのでしょうが、科学と名乗って、まるで何か科学的なことをしているように振る舞っているので、哲学とは区別されるようです。
そんな中で偉い哲学者は誰なのでしょうか?ということも気になります。
自分が日本の大学の哲学系の学生だった頃の雰囲気としては、まず相当年数カントかヘーゲルを徹底的に研究しないと、そもそも相手にされない。そのうえで、ギリシャ哲学には相当程度の敬意を払う。
哲学といえばドイツが本流でイギリス系は邪道。なので、ニーチェやハイデッガーは偉い。フランスの実存系も敬意が払われている。なんて感じでした。
そんな世界から離れて年月がたち、哲学以外の色々な本を読んできました。そういう中で、その本の課題を検討するために引用される過去の哲学者もいます(そう、現在の自然科学の世界で「引用」されることが大事なのです)。で、しっかり調べたわけではなく、あくまで感覚的なものなのですが、そういう引用のされかたからみた3大哲学者は、プラトン、ヒューム、カントといったあたりかなと思います。
やはりカントは偉いですね。私も人生で一番衝撃を受けた本は純粋理性批判です(どこまで理解できたかは別として)。何と言っても、理屈だけであれだけ複雑な論理を組み立てて、しかも何か極めてもっともらしい。哲学なんてものが、一つの意味あるものとして扱われているのは、カントがいたからではないかと思います。
量子力学を前提に世界を考える、なんて本になると、やはりカントの認識論がとても親和性が高くなってきて検討の対象になります
プラトンもよく出てきます。大抵の問題はソクラテス・プラトンで検討されていると言ったりするだけのことがあります。なお、ソクラテスに著作はなく、ソクラテスが何をしたかはプラトンが書いています。で、プラトンの著作の大半の主人公はソクラテスです。そんなわけで、はじめのほうがソクラテスの思想、後半がプラトンの思想とされたりします。
あとは、ヒュームです。マイナーですが、イギリス経験論の集大成とされていたりします。経験論を突き詰めた結果、鋭い懐疑論者になりました。懐疑論者として、正しいことをたくさん言っています。ヒュームの言っていることに反している時点でアウトなのですが、それがなかなか難しい。
なんてところです。ヘーゲルが出てきた記憶はほとんどないですね。ヘーゲルだったりハイデガーだったり、フランスの実存系だったりは、弁証法ということをいう人達です。正直、私は、この系統は説得力を感じませんでした。「Aという考えとBという考えが弁証法的に云々してCという考えになる」とか言うのですがなぜDでなくCなのかは一切説明がないので、なんだかよくわからないのです。
今読んでいる本で弁証法系の人たちの考えがでてこなくてほっとしています。
まあ、単に様々な本を書く人が主に経由する学歴において、基本的教養として学ぶものとしてプラトン、ヒューム、カントは出てくるけど弁証法系はでてこないので、引用もされないというだけのことかもしれませんが。
観光地の魅力
3月 31st, 2024西表島に行ってきました。
アジアンラリーでタイ、カンボジア、ラオスの「ジャングル」を走ったり見てきたはずですが、ジャングル感でいえば、圧倒的に西表島のほうが迫力がありました。
国内旅行で体験できる別世界感としてはトップクラスではないかと思います。自然が人間を圧倒しているような感じです。フェリーで石垣島に戻ってきたとき、石垣島とのあまりの落差に驚きました。石垣島は人間の世界です。
同時に驚いたのが、外国人観光客がほとんどいなかったことです。最近は日本のちょっとした観光地であれば、たくさんの外国人がいます。
台湾の人にとっては、目と鼻の先の西表島にわざわざ行く理由もない。東南アジアの人にとっては見慣れた風景。西欧人にとっては、ジャングルを体験したければ他にも選択肢は色々ある。
なんてあたりが推測されます。
石垣島についたらたくさんの外国人がいました。
観光(特に外国人向け)は、今後の日本の産業として有望視されていて、個人的にも色々と興味をもって考えていたのですが、今回の出来事は軽い驚きでした。
上達の漸近線
2月 29th, 2024先日、毎年恒例となっている大学時代の友人とのスキーに行ってきました。
毎年そう思うのですが、去年より少し上達していた感覚がありました。
毎日、バイク用のバランストレーニングをしています。そのトレーニングはスキーの上達にも寄与しそうです。なので、しょっちゅうスキーをやっていなくても、上達を期待したいわけです。
ただ、「この程度滑れるようになりたい」というイメージするレベルには、徐々に近づいている感じはあるのですが、10年20年と結局そのレベルに達することはできません。どんどん近づいていいくのですが、決してそのレベルに達することはできないのではないか、という気もします。
バイクについても同じ感じになっています。
乗るたびにうまくなっていっている感覚はあって、それはそれで楽しいのですが、「この程度走れるようになりたい」と思うレベルには近づけど近づけど、到達すること叶わずという感じがあります。
まさに漸近線という感じですが、上達曲線という言葉はあっても、漸近線は一般的ではないようです。
カンボジアの交通と自動運転
1月 31st, 2024カンボジアのバイクツアーです。
オフロードバイクなので、色々入っていけます。下草が燃えた直後の森の中とか。
イメージとしては、ヘリスキーが近いのかもしれません。ある程度スキーができて初めて入っていけるゾーンに行くことができます。
スタートとゴールはプノンペン中心部のバイクショップ。なので、市街地の混雑した道を走っていきます。日本の都市部と変わらない混雑具合(ただし、バイクやトゥクトゥクの割合が高い)ですが、交差点にほとんど信号がありません。
優先道路をまっすぐ走る分にはまあよいのですが、左折(右側通行なので日本で言う右折)したり、交差道路が幹線道路だったりする場合は、なかなか大変です。
対向車線や交差道路が2車線ほどある場合だと次のような感じです。少しだけバイクを対向車線(左折の場合)なり交差道路なりに出す感じにして、対向車線や交差道路を走る車に間隔が空いたり、譲ってくれる気配がある場合にまず1車線分進める。そしてもう1車線分を同じ要領で様子を探りながら進むという形になります。ある種、お互い様なので、左折車両や細い交差道路の直線車両があって進む意思がみえて場合は譲ってくれているような感じです。
このような譲る意思がない場合、事故が多発しそうです。ただ、そのあたりは、社会的動物としての人間の本能なのか、それほど事故が多発するわけでもなく、なんとかなるようなので面白いです。国家による信号の設置と交通取締りの存在がなくても、おおかたうまくまわるようです。
なお、そういうところで車やバイクなんて乗らないから無関係ということでもないです。道を横断する場合も、同じ要領で車の様子をみながら強引に車をせき止めながら渡る感じになります。
さて自動運転でこのようなことができるのかは興味深いです。
日本でも、商店街で人がうじゃうじゃいるところを進むには、人の目の動き等を観察しながら進む等色々やらないと難しいので、自動運転だと進むことができなくなるのではないかという気がしていました。ただ、日本ならそういうところに入り込まなければよいとも言えるので、それほど重要な問題ではないともいえます。
これがカンボジアだと主要道路を走る場合でも同様のことが要求されそうです。固まって進めなくなって交通全体をせき止めることになったり、逆に譲ってやるべき雰囲気のときに譲らなかったりとか色々と発生しそうです。
運転とはいっても、相手の様子をみながら、トラブルになるのも避け、逆に譲歩しすぎて何もできなくなることも避け、という高度の社会性が要求される場合は、自動運転も難しいのかもしれません。
今年読んだ本2023
12月 22nd, 2023今年の半ばあたりから講談社の商法につられた感はあります。なんとなく興味がありそうな見出しをクリックすると、実は本の宣伝。なんとなく読んでしまう。次の本を探すのがうまくいかないことも多い中、結果としてなかなか面白い本も多かったので、よい宣伝なのだろうと思います。
「香り」の科学 匂いの正体からその効能まで 昨年は理系の本は読んでなかったなというところで。
人間の世界認識の基本は視覚が大きく次は聴覚。いずれも波の感知であり、電磁波なり空気なりの波長の違いを色なり音程なりで認識している。波長は数値による分析・理解と親和性が高い。
嗅覚は全く異なる。様々な化学物質があって、これらは個別的であり数値による分析には適さない。
仮に人間と同じだけの知性があって、ただ感覚器官が視覚・聴覚ではなく、嗅覚が中心だとしたら、空間・時間、それらを数学によって分析するという科学の発展はなく、全く違った形になっていたのではないか。
というのは本書の内容ではなく、個人的に嗅覚に興味を持っていた点です。
本書はあくまで「香り」だったのでニオイ全般についてではなかったので、上記の点について着想がすすむことはあまりなかったです。雑学知識的にはそこそこ面白いが、化学式が多め。
イーロン・マスク 未来を創る男
なかなか面白かったです。
Twitterの買収もまだゴタゴタしているようですが、これを読んだ後だと、立て直すどころか、よりすごいことを成し遂げてしまうような気もします。
物語 スコットランドの歴史 イギリスのなかにある「誇り高き国」
NetflixやAmazonPrimeでイギリスが舞台のものをみていたり、BBCを聞いていたりすると、もう少しイングランドだスコットランドだというあたりをしっかり理解したくなってきます。
イギリスについては島国なので多少日本に近いかも的な印象がありますが、こういうのを読むたびに、むしろ日本の特殊性が理解できます。
国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源
なぜ、裕福な国と貧困に苦しむ国があるのか。という主題。イギリス、アメリカ、大陸西欧、日本あたりをうまくいっている国として分類し、そうでない国と比べる。
面白かったのは、大陸西欧がうまくいったのはフランス革命でフランスがうまく行きだした後、ナポレオンが征服地域の既得権益層を根絶やしにして、新たな民主的秩序を植え付けたからとしている点。
日本の分析は日本人からするとおざなりにみえるけどだけど、このナポレオン征服の論理は東アジアの日本の征服地域が発展した理由にも当てはまるのでは?という気がしました(そんなことは絶対認めない人がいるのも承知ですが)。
NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか?
前著のファーストアンドスローは、ここ10年で読んだ中では最高の本といえるので、大きな期待をもって読みました。
仕事上、気になっていた問題が主題ですし、それなりに面白かったです。が、ファーストアンドスロー程の内容の密度はありませんでした。
インド外交の流儀:先行き不透明な世界に向けた戦略
日経に出ていて興味が出て読んだ本。インドは重要国だが、自分の中でもイメージをつかむための情報が不足している感があったし。
マーハーバーラタの知識があることを前提に色々説明しているのが、ある意味驚異的でした。キリスト教文化圏、中国文化圏とは全く違った教養をもつ文化圏であることが印象的です。
未知なる人体への旅 自然界と体の不思議な関係
医者他様々な人生経験を有する著者によるエッセー。
エッセーではなく、もう少し知識系の本を期待したいたので、ややいまいちか。
イスラームの論理
イスラム教に坊さん・神父の類、つまり布教を職業とする人がいないというのは以前から知っていました。
この本で、ムハンマドの物語に奇跡はないということも知りました。
すごいですね。まあ、布教を職業とする人がいると、その便宜で奇跡の物語も必要となるのかもしれません。
日本人の感覚で宗教というと、仏教やキリスト教からの類推が多くなってしまうのですが、イスラム教は、ある種のまっとうさにおいてレベルが違うのだろうと思います。
また、イスラム教での神様はこわい神様のイメージがありました。この本の説明からすると、浄土真宗の阿弥陀様に近い雰囲気です。すがれば最後は救ってくれるような。
キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか
著者はキリスト教徒のようなのですが、そうとは思えない程、身も蓋もない話。
キリスト教の内容は多様であり、統一的に理解できるものはない。キリスト教の本質は、宗教をビジネスにしようと思う人が、そのビジネス上の必要に応じて様々なキリストの物語を紡ぎ出していって、結果として生き残っている教えである。
というような感じです。
人体最強の臓器 皮膚のふしぎ 最新科学でわかった万能性
久々に生物系の本。とても面白かった。
少し消えかけていた免疫系の知識の記憶喚起にもなったし。
仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか
フランス人が書いた世界にひろがる仏教全体についての入門書。
日本人が仏教と言われた思い浮かべる諸々、お経、大仏、曼荼羅、禅問答なんてあたり。おそらく、仏教の創始者のゴータマシッダールタに聞いたら「・・・」。ということだろうと思います。そういう面で、日本の仏教がなんでこうなのか、とか、世界の他の仏教はどんなかんじなのか、なんてあたりは興味がありました。
そんなあたりのイメージが多少はつかめました。仏教というのはそんなもん的な感じでしょうか。
戦争プロパガンダ10の法則
昨今の不穏な世界情勢から、双方の立場から色々な情報が入ってくるのでなんとなく購入。
残虐行為が報道されてそれに基づいて色々動き出して、でも実はそんな残虐行為は存在していなかったといのは定番のようです。
オーディブル
今年は途中からオーディブルも少し利用。車の移動中になんとなく流しておくのにちょうどよい。逆にあまりしっかり聞かなくてもよい内容でないときつくて、買ったけど途中で断念も多数。まだ試行錯誤中。
忘れられた日本人
すごく面白かった。昔話を聞いている感じで、流し聞きや、繰り返し聞きによい。
一般的な日本人の道徳観だと思っているものが、だいぶ違うこともわかります。
ユダヤの商法
藤田田の名著。以前読みたいと思ったときは絶版になっていて、Kindleでは読めない状況だったが、いつの間にかオーディブルにもなっていた。内容は軽いので流し聞きでもストレスがない。