Archive for the ‘マイタウン法律事務所’ Category

ダメ世代

火曜日, 11月 28th, 2023

最近の若者は、ますますダメになっているようです。いったい日本はどうなってしまうのでしょうか?なんてことは、自分が若者でなくなりつつある頃から、多くの人が考えがちなことです。



そんな考えをするときは、「自分のときは、こうだったのに、今はこうだ。だからダメなんだ」的な思考をします。ところで、自分の世代はどうだったんでしょうか?



私は昭和46年生まれですが、前後5年の10年あたりをダメ世代だと思っています。
その世代からは、たいした起業家は生まれてないんじゃないかと思います。それより上やそれより下は、多少いるような気もしますが。この世代から、2,3人でもユニクロ級の企業を作り上げる人がいたのであれば、日本の経済面ももう少しマシだったのではないかと思います。
起業家でなくても、ダメ世代が働きだしてから中堅どころになって社会の中核を担っている現在まで、日本はひたすら低迷しています。どのようにして、社会を侵食したのかは不明ですが。
おそらくノーベル賞なんかも、この世代からはでないんじゃないかという気もします。



というところで、何が悪かったのかはわかりませんが、自分たちの世代は何かがダメだったんです。教育がだめだったのか、社会の雰囲気が若者からハングリーさを奪ったのか、太陽からの電磁波だかなんだかの影響で遺伝子的に劣悪な人たちが生まれたのか。まあ、わかりませんが。



軽く思い当たるのは大学時代です。極楽かと思うほど、ラクで快適でした。自分にとってはよかったのすが、今思いかえすと、日本最高峰の頭脳を集めていると思われる場所がそれでよかったのかは、なんともです。そんなところでまったり過ごした人たちが、社会に出ても冴えなかったというのは、理解しやすいです。



就職氷河期世代なんて言うのもダメ世代の一部です。他の世代であれば、就職できないのであれば自分たちで会社を作るなりなんなり、海外出て活躍するなり、何なりしたのではないかと思います。



そんなわけでダメ世代の端くれであることを自重して、最近の若者のこと等はどうこう言わないよう気をつけてまいります。

温暖化と人口問題

水曜日, 6月 28th, 2023

地球温暖化は、ごく当たり前の事実とされ、それに対して対策を取ることも当然の責務とされています。
この問題を考える上で、参考になるのは日本の人口問題です。



日本の少子化が問題とされ、人口が減少して大変なことになると、これはこれで騒いでいます。
でも、ほんの何十年か前、人口が増加しているときは、「このままでは大変なことになる」と騒いでいいました。で、海外への移民を推奨したり、「明るい家族計画」という自動販売機があったり、女性の高学歴化を推奨したりして、なんとか人口増加を抑え込もうとしていたわけです。



で地球温暖化。100年後の世界で仮に今より気温が2度程高くなっていたとします。まあ、場所によっては今より過酷な状況になるところもあるのでしょう。
ここで、何らかの人工的な要因(新たに使われた化学物質でもよいし、地球上を太陽光パネルで覆い過ぎたせいでも良いし)で、地球の気温が下がり始めたと誰かが言い出す。そうすると、きっと「このままでは大変なことになる。氷河期になる」と騒ぎ始めるわけです。
別に、元に戻るだけの話なのですが、2度気温が高くなった世界では、それに応じた順応がなされて秩序が形成されていますので、やはり元に戻ると困る人がでるのは当然です。



まあ、そんなところです。結局、何かをみつけて騒ぐということです。気温が一定化して、人口も一定化しても、何かを見つけ出すに違いありません。
人間の認識構造(ネガティブ情報に非常に敏感である)、意識構造(勧善懲悪的な世界観の中で人生を解釈したがる)と集団的な行動原理との組み合わせで、人間社会の必然ともいえる現象といえます。「もう、そういうのやめにしようぜ」といったところで無駄です。なので、そういうことは言わずに、一緒に騒ぐのが上策かもしれません。

週休3日

日曜日, 4月 30th, 2023

少し前から週休3日が色々と話題になっています。



私が弁護士になる前後のキーワードの一つも週休3日でした。
サラリーマンになって感じたことは
「週に5日も働くのはキツイ。こんな生活をこの先何十年も続けるのは避けるべきだ」
ということでした。
当時、週休3日というような条件で普通に働く選択肢はありません。
「じゃあ、自営しかないか」
ということで、自分の諸条件からしてもっとも安易な選択肢として弁護士が浮かび上がったのです。



司法試験合格後、当時の司法修習はエリート感やバリバリ働く感じの高揚感がありました。
休みなく働くことをかっこ良いと思っているような。
そんな中「週に5日も働きたくないから弁護士になった」
等と言っていたので、怪訝な顔をされた上でミソッカス扱いされていた感じもあります。



さて、例によってマスコミは、週休3日の導入を好意的に報道します。
週休3日を目指して弁護士になった(その後改心したわけでもない)私からみても
「本当かよ」
と思います。



週休3日にするということは大幅な収入の減少を覚悟する必要があります。
働く時間が短くなるのですから、当然その分(5分の4)は減収があるとして、
いない時間が長いのはより不便なので、それ以上の減収がしかるべきです。



最近、日本だけが給料が上がってないなんて話も報道されます。
当たり前です。
その期間、時短時短といって、残業をさせない、有給を徹底的に消化させる、休日を増やす、
なんてやって、労働時間は大幅に減っています。
その分だけ大幅に給料が下がるはずが、結果として給料が維持されている。
それだけでも、マシなんです。
当たり前ですが、労働時間を減らす方向にすれば稼ぎは減ります。
「効率よく」なんて理屈はこねますが、現実がそれどおりになることはマレです。



日本だけ給料があがってないことを問題視しながら、週休3日を歓迎している・・・



私自身、週休3日を目指すにあたっては、
・自分は勉強については、いわゆる勉強エリートの3倍程度の効率でこなす自信がある
・なので、勉強に近い仕事であれば、人の3倍近い効率で働けるはず
なんて目算があったから、週休3日を目指したのです。
そんな目算もなく週休3日というのは、昔にフリーター的な自由だけど収入はギリギリと言う方向になるか、週に5日働く人に寄生させるかのどちらかになりそうです。



で、実際、私自身が週休3日を実現できたのかというと。
まずは4年間のいわゆるイソ弁的修行期間はボスがそれを許しません。
なので、居心地のよい事務所ですが、週休3日を目指すべく独立。
小さな子供がいて共働き状況で、毎日バタバタ。
こんな状況で週に1日余分に休んでも子守の日が1日増えるだけです。
最近は、子育てもおおかた終わりになってきましたが、やっているのは社長業。
休みの日も頭の中は仕事のことが巡って(で、必ずしも悪くはない)、
反面、仕事の日もフル稼働なわけでもなく。
仕事と休みの境界が曖昧になってしまって、週休3日の意義がぼやけて来てます。

今年読んだ本2022

水曜日, 12月 21st, 2022

ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観
アマゾン流域で暮らす原住民の話ですが、かなり面白かったです。
「直接経験したことしか話さない」という社会的規範があるから、著者の宣教師がキリストの話をしても「お前はキリストを見たのか?」という話になって、「大昔のことなので見ていない」というと「は?」という失笑とともに終わってしまうとか。
それ以外にも特殊な文化的規範が多数あって、異様に幸福そうに暮らしているとのことです。
何か困ったときは「ピダハンならどうする?」と考えるのも無駄ではなさそうです。





ヤノマミ
ピダハンが面白かったので、似たノリで。
想定外の文化のことを知るのは刺激になります。出産直後の子供を育てるか否かの選択権は母親にあるとか。
ただ、どちらかというと物悲しさがあります。現代文明との接触→文明の利器を欲しがる→街にいって物乞いや売春をはじめる というパターンとか。





われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」
この世界はより高度な世界で作られたゲームなのではないかという話。何でも説明できてしまう理屈なので検証もしようもないし、有用性もないということで自分の中では決着していた理屈です。
ただ、量子力学との親和性は確かに面白いと思います。
コンピュータで世界を生成→世界がビット化(量子化)。
プレイヤーが見る限りにおいて世界を生成→量子力学の観測問題
なんてあたりです。





ルワンダ中央銀行総裁日記
国家といえるのかどうか、というレベルの国の形を整える話で面白かったです。





サラ金の歴史 消費者金融と日本社会
一時期、仕事の中心が対サラ金だったので、ちょっとした懐かしさとともに読んだ見た本。
「サラ金をけなす」というノリではなく、なかなか面白かったです。



GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代
純文学を読んだつもりが水戸黄門だったという感じ。
世界を良い人と悪い人に分けて、最後は良い人が得をするというような。後に読んだ「ストーリーが世界を滅ぼす」ではないが、勧善懲悪のお話に接すると人間の批判能力は減退して、感銘を受けてしまうのだろうか。



21世紀の貨幣論
仮想通貨に興味を持ったあたりで、貨幣そのものについて理解を深めようかと考えて読んでみた本。仮想通貨には触れていないが、なかなか面白かった。
特に、石貨フェイの話(フェイはお金なのだが実際には使わない)は興味深かったです。





戦国の作法 村の紛争解決
ブロックチェーンの世界において、最終的には国家権力による秩序維持は無理なのではないか。ということで、国家権力が弱かった時代の自律的な秩序形成には興味があり、そんなノリでよんだ本。
論じ方のスタイルが独特で一般化した部分には説得力を感じず、断片的な情報の面白さという感じ。





心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学
「心の奥底の本当の自分」なんてものはないという話。その場その場で適当なことを言っているだけ、ということです。感覚的にもわかる気がして、説得力があります。
「本当の自分」がどうのとかいって、迷宮に迷い込んでいる人は、その手の概念はオカルトであることを理解することが解決の早道になりそうです。
「子供の気持ち」の類も、同様に幻想なのだろうと思います。





ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する
人間は勧善懲悪の物語の中で生きていて逃れられないという話。
正直、人間が意見を述べたり議論をしたり、というのは単に「そういったことを言っている自分が好き」で、それをアピールしているだけで、何か正しいことを見極める気などサラサラないように思えていました。この本の説明からすると、これも勧善懲悪の物語の中で正義の味方としての自分を生きる行動ということで理解可能かもしれません。





シミュレーション仮説

日曜日, 5月 29th, 2022

今、この現実と思っている人生はゲームに過ぎないのではないか?
というのは、小さい頃からたまに感じることではありました。今、シミュレーション仮説とかいうことで、それなりに表に出てきているようです。まあ、バーチャルリアリティやメタバースだということで、一瞬現実を忘れるほどの道具が実用化されつつあると、当然、意識することになります。



人生や現実諸々を考えるとき、「ゲームに過ぎないのではないか?」という考えは、非常にきれいな説明をしてくれることが多いので、魅力的ではあります。
とはいえ、結局のところ、何でも説明できてしまうので、根本的にはあまり意味がない(間違っているというわけではない)ともいえます。何が起こっても「それは神の意志である」と説明できてしまう、というのと同類です。「何事も自然が一番」なんて言うのも同類ですね。



そんな中、裏側にプレイヤーのいないキャラクターをプログラムの類(AIによる裏付けを含む)で実現しているうちに、そいつらが意識を持つのではないかなんて話もあります。まあ、それはないだろうと思いますね。



まず何と言っても、自分以外の人にも同様の意識があるということ自体がある種の幻想というか、人間の思考回路が生み出す幻のようなものです。だから、自分とよく似た見かけをしている人間という生き物だけでなく、犬や猫に対しても「自分の気持ちをわかってくれている」と称して話しかけたりしますし、ぬいぐるみに対しても同様です。
もっといえば、自然災害が起こっても「〇〇がお怒りになっている」からということで、何らかの意志の存在という幻影を抱くのです。道端に石ころがあって転びそうになっても、とっさに誰かの悪意や愚かさを探究したくなります。
ということで、人間があるモノに意識があると感じるかどうかは、そもそも何かが意識を持っていることとあまり関係がないといえます。



なので、それを超えて本当に意識があるのかどうか等と考えることができるのか怪しいところではありますが、まあ、そうこうことができるとします。
そういう場合、知能水準が人間以上になれば、そのような意識が生まれると思いこんでいる輩が多いです。人工知能が一定レベルを超えると大変なことになるぞ(シンギュラリティ)とか。
でも、人間が知能があるかのように振る舞っている会話をよく観察すれば、知能に基づくやりとりなんてほとんどしていないことに気がつくはずです。会話の多くは、武勇伝の類だったり、同情を求める話だったり、他人の悪口だったり、説教だったり、ファン意識だったり、相手との会話がデタラメにならないギリギリのところ(ここに多少、知能を使う)でスキついて、言いたいことを言っているだけです。武勇伝を言いたくなるのは、尊敬を得たいという欲求があってこそです。同情、悪口、説教、ファン意識、いずれにしろ欲求があってのことです。もう少し複雑化すると、下心や好意にもとづいて、相手が喜ぶような話をする(武勇伝に驚いて見せる、褒める)なんていうのもあります。
何かより高尚っぽい思想とか意見の類だって、考えているような素振りをみせていても、頭の中では「その意見を持っている自分」と「別の意見を持っている自分」を想像してみて、どちらが気持ち良いか比べているだけのことが多いといえます。
会話の主題のひとつである「本日(近況)の出来事」の報告も、自分がどう思われたいかという欲求がないと、話題の取捨選択ができないような気がします。



この類の欲求なり、下心なりがなければ、そもそも会話をしたいという欲求が生まれず、話すことがなくなってしまいます。つまり、いくら人間のような知能を備えたところで、この手の欲求等がなければ、意識があるようにはなりません。もちろん、武勇伝を聞いてやるだけのロボットはできるでしょうが(人間よりも適切に、驚いてみせたり、質問してみたり)、それは、スーパーぬいぐるみのようなものといえます。
またはプログラムに快楽パラメータを仕込んで、武勇伝を聞いてもらっているとそのパラメータの値が高くなるようにしておいて、そのパラメータを最大化するよう行動するよう仕込むことはできると思いますが、まあ、恐怖の人工知能とうものとはだいぶ違いそうです。



別の見方をすると、ドラマを見たくなったり、スポーツを応援したくなったり、特殊な趣味を持ったりするようにならないと、人間に言わせれば「心がない」ということになるのではないかと思います。



さらに、脳科学の成果からすると、人間は意識が「こうしよう」と思う前に勝手に動いているようだし、よくよく自分の動きをみていると確かにそういう気がします。となると、シミュレーションというのは自分がプレーヤーなのではなく、人(または自動で動くプログラム)のプレーを見ているだけなのに、自分でプレーしているだけというのが帰結なのかもしれません。

まゆつば健康論

日曜日, 4月 24th, 2022

年をとってくると健康論を語りたがる人が増えます。
若返り計画遂行中の身ですが、(自戒を込めて)人が考え出す健康論、現代の健康論がいかにしてデタラメになるかについて書いてみます。



いわゆるプラセボとかノセボがあります。つまり、全く無駄な薬(健康法)でも体によいと思ってやれば、本当に体によくなります。また全く無害な食べ物(行動)であっても、体に悪いと思い込んでいたら、実際に体調は悪くなります。
さらに、確証バイアスが働きます。一度、これは健康によい、と思い込んだら、それに見合う情報のみを取り入れ、たまに体調が悪くなる情報は無視されて、どんどん確信を深めていきます。



まあ、個人の実感に基づく健康論はそんなところですが、デタラメでも実際に健康になる以上、あまりゴチャゴチャ言う実益はないのかもしれません。



で、こういう健康論を支える専門家と言われる方々のご説は、どうでしょうか。プラセボやノセボの影響を排除したり、血液データ等を分析したり、色々していそうなので信用できそうです。でも、結局のところ視野の狭さからくる問題を回避できていない気がします。そんなわけで、色々とあることないことを書いていきます。



深い睡眠?



ほとんどの人は、深い睡眠をきっちりとることが大事だと思っています。深い睡眠をとれずに夜中にチョコチョコと目覚めたりすると何か体ができそこなっているのではないかと思ったりします。昼間に眠かったりすると、へんてこな症候群にされかねません。そして、睡眠について書かれた諸々を読んでみます。で、大半の本には深い睡眠の重要性と深い睡眠をとるための方法が書いてあります。
でも、野生動物も、狩猟採集生活をする人間(人間の遺伝子はこの生活に適応するよう形成されている)も夜中に深い睡眠をして昼はパッチリなんてことはないようです。浅く短い睡眠を繰り返しとりながら生活します。そりゃあ、色々危険がありますから当たり前です。なので、これが標準状態です。病気ではありません。
まあ、睡眠研究をかたりたければ、このあたりから踏まえて考えて見る必要があるでしょう。



空腹で力がでない?



「腹が減ったら力がなくなってくる」と信じている人が多くいます。腹が減ったら戦はできぬ、とか。これと逆のことを言う人はあまり見たことはありません。
でも、腹が減って力がなくなるような生き物は、生存競争で生き残れません。腹が一杯になったら、体力も気力もなくなって、腹が減ってきたら体力も気力も充実してきて、餌を捕まえに行くようになっている、なんて当たり前のことです(餓死する寸前はさすがに駄目かもしれませんが)。なので、腹が減ってきたら、体力も気力もなくなってくる感覚はおそらく(アンパンマンに三つ子の魂を洗脳された可能性もあります)、ノセボです。そういう気がしているので、気力がわかないのだろうと思います。



塩分補給



汗をかいたら塩分を補給しないと駄目になってしまうと思いこんでいる人も多くいます。
でも、精製塩を人間が手に入れられるようになったのは、人類史のうちごく最近のことです。それまでは、どうしていたのでしょう?どうもないと思います。精製塩が手に入らない時代、人間の塩分摂取量は現代人よりは大幅に少なかったでしょう。そして、暑い中狩猟をすれば、それなりに汗をかいたでしょう。でも、塩分補給は必要なかった、というよりそのような塩分の入手手段は存在しなかった。そのような環境に適応して今の人間の体は形成されているのです。そうなると、マラソンのような特殊な行いは別として、ある程度(つまり狩猟で動物を狩る程度の運動量)で塩分がないと駄目というのは、眉唾な気がします。



水補給



水分補給も同様です。脱水症状だなんだとよく言います。でも、森の中であれサバンナであれ、水なんていつも好きなように補給できるわけではありません。そういう環境で活動するよう適応して形成されている人間の体が、チョコチョコと水を補給しないと駄目になってしまうというのは、誰が考えついたのでしょうか。カエルのような水辺の生き物についての理屈のようです。



お腹がいっぱい



これは自分もそうなのですが、一食分+αを超えるとお腹がいっぱいになって、これ以上食べられない気がします。お腹の容量を超えているようで、これ以上無理して食べるとお腹を壊します。
でも、これもおかしな話です。今のように、1日3食なり、それプラスおやつなりで、チョコチョコと食べるというのは現代社会の習慣です。人間の体が適応してきた状況は、数日はほとんど食べないでいて、大きな獲物が手に入ったら一気に食べてエネルギーを蓄える、というものです。ですので、人間の体は数日分かそれ以上の食べ物を一気に食べられるようにできていると思われます。
ですから、無理して食べてお腹を壊すのはノセボの可能性が高いと思います。



紫外線



紫外線の危険性もよくかたられています。
少し前ですが、紫外線の危険性を世間に伝えてきた専門家が言っていました。紫外線の危険性を伝えてきたが、あまりに紫外線を避けるようになったので、ビタミンDが不足するようになった。ビタミンDの形成に必要な程度には紫外線を浴びるように推奨するようにしている。
専門家のいう健康情報の視野の狭さを象徴していて面白かったです。
人間の体のことは、ほとんどわかってないです。人間の遺伝子は、10万種類のタンパク質を形成し、そのタンパク質のほとんどは酵素として化学反応を媒介しますが、その働きのほとんどはよくわかってないでしょうし、数が大きすぎて理解は難しいでしょう。それ以外にも存在が判明していない、作用が解明されていない無数の化学物質が人間の健康をコントロールしています。
免疫細胞についても極めて複雑で、理解しようとすればするほど、複雑な事象が現れます。人間の体表や体内に多量(人間の細胞の数よりだいぶ多い)の微生物が住み着いていて、その共生によって人間の健康が保たれていることもようやくわかってきたばかりです。
そんななか、ごく僅かにわかっているものの一つがビタミンで、紫外線との関係がわかっている健康関係化学物質です。
それ以外のタンパク質、化学物質、免疫細胞、微生物、その他諸々と紫外線との相互作用は、存在しないと証明されたわけはなく、まだ全く研究が始まってすらいないというのが現状でしょう。そして、おそらく(ほぼ間違いなく)、これらの中に紫外線と重要な相互作用をしているものがあるでしょう。



つまるところ、紫外線と健康との関係については、



  • 皮膚に対しては悪い作用を及ぼすことある
  • ビタミンDを作るという点ではよいことがある
  • それ以外にも大量の相互作用があることが予測されるが、まだ全く未解明である


ということなのでしょうが、3つ目のことを無視して考えているのだろうと思います。
いずれにしろ、人間はある程度紫外線を浴びる環境に適応して体を形成してきているので、それを妨げるとロクなことにならない可能性が高いと言えます。





そんなわけで、おおかた狩猟採集生活との比較になりましたが、基本的に人間の遺伝子はその生活に適応しています。なので、狩猟採集生活と矛盾するかどうか、というのは、健康論の当否を判断する一つのメルクマールといえます。

納得いく説明

火曜日, 3月 29th, 2022

ロシアのウクライナ侵攻によって,世の中のニュースがコロナからシフトしました。
人間が何を理解でき,何ができないのか,というあたりは常に興味を持っていますが,コロナのとき同様,色々と発見もあります。



プーチンがなぜウクライナを攻めたのかについて,
頭がおかしいから
とか
私利私欲に基づく悪人だから
なんて説明を平気でしている専門家の類がいるのは,ナカナカです。
上記の説明を冷静に分析すれば,「何もわかりません」というのと同じですから,「ごめんなさい。専門家を僭称するのはやめます」として欲しいところです。
人間が,ある種の説明に納得するかどうかは,一定の手順の証明がなされたかどうかというより,頭の中や気持ちが「スッとする」「なにか落ち着く」という感じが得られるかどうかが大事だということです。
「頭がおかしい」「極悪人」とかいう悪口を言ってみて,気持ちよくなって,正しい事実を発見した気になるという機序が働いているものと思われます。



とはいえ,いわゆる西側的観点から見た今回の出来事の解釈と,ロシア側からみた今回の出来事の解釈とは折り合いがつくのは難しい気もします。現在に起きている出来事ですら,このような状況なのですから,過去の出来事について,歴史認識の折り合いが周辺諸国とつかないのも無理がないかなと思います。もちろん,完全に理解を諦めてしまうと,「あいつらはキチガイだ」モードになってしまうので,分かろうとするフリは必要なのかなと思います。
今回の出来事について,理解の折り合いがつきにくいのは,民主主義についての評価の違いなのかなという印象です。
西側観点はある意味,民主主義原理主義的なところがあって,それに反する体制は悪だし,民主主義の推進は善ということになります。
でも,きっと中国やロシアの指導者からしたら,民主主義でうまくいっている国はごくわずか。民主主義の導入によって国内が大混乱し内戦になる可能性もある。自国をそんな実験的な試みの犠牲にはできない。そうである以上,民主化の試みは危険なので排除したい。というあたりなのかなという気がしています。
こういうことを,「どっちが正しい」とか「よいわるい」とかいう,子供教育用の道徳概念で考えもしょうがないのでしょう。



とはいえ私もだいぶ西側観点に染まっていて,ロシアの動きはうまく理解にしくいところがあります。そんなわけで,第二次大戦での独ソ戦について書いた本を読んでいます。
ドイツは,ソ連を攻めるにあたって,兵站の準備をしっかりしておらず無謀だった,ということのようです。ちょっと攻めれば,ソ連は屈服すると思っていたようです。
そうです。今回のロシアについて言われていることです。
それだけではありません。ありがちな日本人の太平洋戦争反省論でよく出てくる話です。輸送を考えずに無謀にも南方に進出し云々。
どこも,へなちょこな軍隊ではありません。その次代のトップクラスの軍隊です。
そうなると,そもそも人間はこの規模の軍事行動を計画することなんて出来ないのではないかという気がします。結果としてうまくいった作戦は兵站を考えていたのだというのかもしれませんが,展開が変わっていた場合には同様のことになった可能性もあるのでは?と思います。
ちなみに,このたぐいの「日本人は」的な話は多々ありますが,人間全般を研究した海外の本を読んでいると,多くのは人間全体の特徴であることが多い気がします。「日本人は」とかいう説明を受けると,2つか3つ思い当たるところがあって,特に憎しみの対象をギャフンと言わせてやったような気持ちよさが生まれたりして,その説明に納得し,多くの人に流布していくということなのかもしれません。

ハイレゾpart2

日曜日, 2月 20th, 2022

ハイレゾ音源のことを以前に書きました。
2013年10月とあるので、感じていた以上に前のことだったようです。
当時は、onkyo等のサイトからダウンロードして、という方式でした。狙いをつけて購入して聞いてみる、あったりはずしたり。
そのうち、慣れてきてしまって、購入して聞くことで得られる喜びも鈍麻して、買わなくなって月日が流れました。



そして、音楽はストリーミングの時代です(同時もそうだったかも知れませんが)。
そんな中、契約しているAppleMusicでもハイレゾ配信ということで、久々に挑戦です。
ストリーミングで聞くだけなのに、「挑戦」とは大げさなと思うかも知れません。
でも、笑ってしまうのですが、単にiphoneとヘッドフォンがあっても聞けないんです。



ハイレゾ高音質データを音にする装置がiphoneにはないので、その装置(DACと言われる)を付ける必要がある。
さらに、ブルートゥースでは聞けないし、普通の有線でのヘッドフォンでも本来の良さがでないらしい。普通の3線のコードではなく、バランス接続という4線のコードを使うべしということのようです。
まあ、何だかわかりませんが、いずれにしろ機材が悪くて本来のものを聞けないのであればあまり意味がないので、適宜騙されながら揃えていきます。
今回利用したのは、
Fiio Q3 というDAC とSony MDR-Z7M2というヘッドフォンです(後者は、バラン接続用のコードが同梱されている)。



まあ、オーディオ機材は様々ですが、本体がiphoneなのでこれ以上よいものをつけてもしょうがなさそうです。おそらくAppleMusicをiPhoneでハイレゾで聞くのであれば、「機材がどうの」という問題は生じないレベルだろうというあたりです。



で、聞いてみるとそれなりによい音の気がして、楽しく聞くことができます。
「本当に良い音なのか?」とか「それを判別できているのか?」というあたりはどうでしょうか?
飲み会で「あの酒はどうの」とか嬉しげに話している際に、4つ5つ似たような酒を注文してみて、「目隠しして自分に酒を判別する能力があるか試してみん」なんて野暮なことはしません。まあ、人間の趣味の談義というのは、あまり余計なことをしないに限ります。



ストリーミングがよいところは、色々と聞いてみることができることです。
もともとの録音状況の違いか、その他の調整のせいなのか、とても素晴らしく聞こえるものもあれば、さえないものもあります。ただ、もしかしたらヘッドフォンを変えると、また違うのかも知れません。
基本的には、様々な楽器が色々なことをやっているのが鮮明に聞こえるので、そのあたりを凝っている曲はとても楽しくなります。また、弦楽器のように音の激しさが、きれいな音と苦痛な音とのギリギリのラインで輝く楽器は、うまく録音されているととてもよいです。



そんな中で適当に聞いてみて、上記機材で聞いてみて良いと思ったのを書きます。
というのは、ほとんどの曲はまだハイレゾ未対応で、しかもハイレゾ曲に絞って検索することもできない(クラシックはある程度できる)ので、「ハイレゾで聞くならこのアルバム」という情報は意外に大事なんです。



The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars  (David Bowie)
ギターだったり、ベースだったり、ドラムだったり、コーラスだったりピアノだったり、そういった楽器が好き勝手に様々な旋律を奏でて全体としてうまくまとまっています。ハイレゾだとそれが明確に聞こえて楽しいです。
David Bowieの歌はカラオケで採点したらきっとあまり良い点にはならないタイプなので、それもよいのだろうと思います。歌はやはり存在感が強いので、普通に上手なボーカルだと伴奏は後ろに引っ込んでしまいがちですが、David Bowieの歌だと他の楽器と対等になります。



Led Zeppelin (Led Zeppelin)
他のアルバムはボーカルが弱すぎのバランスになっていることが多くて、ちょっといまいちでした。
このアルバムの1,2曲目(特に2曲目)はとてもよいです。ボーカルと言っても、これだけ 「メロディーを奏でる」 のと違う存在であれば、音が大きくても、うまく外の楽器と対等となれます。ハイレゾだとアコースティックギターを激しく弾いたときの音がとてもよく聞こえますが、2曲目はその激しさとボーカルの激しさがかみあっています。



Pump (Aerosmith)
エアロスミスはあまり聞いたことがなかったのですが、ハイレゾで聞くとこのアルバムはとても楽しいです。特に5曲目がよい。ちょっとステレオの使い方がわざとらしいけど、とりあえず「わっ」と楽しんで見るにはよいです。



Kind of Blue (Miles Davis)
A Love Supreme (John Coltrane)
まとめてですが。古すぎる人はもとの録音が悪いせいかいまいち、新しい人は演奏がきれいすぎてハイレゾのよさがいきない。この大御所2人の定番と思われるアルバムは、適度に荒々しい演奏なので、その汚さと綺麗さの絶妙な輝きみたいなのがハイレゾだとよく出ている気がします。





クラシックは、検索→クラシック等と進んでいくとハイレゾ特集のようなところがあって、そこからある程度探せます。でも、クラシックは、音の綺麗さがいきるだろうと期待しつつ、ストリーミングでありがたみもなく次へ次へと聞いていると意外にピントくるものがありません。



“Générations” Senaillé & Leclair: Sonatas for Violin and Harpsichord (Théotime Langlois de Swarte&William Christie)
これは何だか意味わかりませんでしたが、クラシック→ハイレゾで探したときに一番はじめに出ていたことがあったのでなんとなく聞いたら、音がすごくきれいで、とても良かったです。クラシックの音をとりあえずハイレゾで味わうのであればよさそう。



Brahms: The Symphonies (Gewandhausorchester & Riccardo Chailly)
クラシック通ではない私は聞いたことがない曲ばかりでしたがオーケストラ系では、音がきれいで楽しめるアルバムでした。録音が比較的新しいとかでハイレゾを意識して録音しているんですかね。



Rachmaninov: Piano Concerto No. 2 & Rhapsody on a Theme of Paganini
(London Symphony Orchestra,Vladimir Ashkenazy,Andre Previn)
少しは聞いたことある曲で、ハイレゾでよいと思える曲はないかと探していた中では、これがよかったです。







物自体

金曜日, 1月 28th, 2022

ここ何年か読む本を探すのに苦労したり、読み始めても途中でやめることが増えてきている気がします。
やめる理由は、つまらなくて時間の無駄だと思うことが大半です。が、理系の本だと途中で頭がついていかなくなって止めることもあります。生物学系だと、読み通せることが多いのですが、物理学系だと断念のことが多いです。文系の本であれば、途中で飽きてきても流して読んでいれば、なんとなく最後までいくのですが、物理学系だとそうもいきません。



そんな中、新たに読む本を無理やりみつけても、つまらなくて我慢して読むか、途中でやめる可能性が高そうなので、少し前に断念した物理学の本をもう一度チャレンジ中です。
論旨としては、量子力学は結局どういうことなのかは誰もわかっていない。ただ決まった計算をすれば有意義な計算結果がでるので、それに満足しているのが実情である。しかし、物理学としては量子力学が示す世界がどういうことなのかを探求すべきである。というようなことです。



つまり、波であり粒子である、とか、観測するかしないかで状況が変わってしまうとか、確率の重ね合わせ状況にあるとか、そういう意味不明の状況を理解するにはどうすればよいか、というあたりのようです。



こういう話だと、もともと哲学系のわたしとしては、やはり客観的な世界というのは、全く理解不能は物自体なんじゃないかという気がします。物自体というのは、カントの認識論の概念です。客観的世界は物自体の世界で、そこには時間も空間も因果関係もない。その意味不明の物自体を、人間は時間とか空間とか因果関係という枠組みを当てはめて理解している。物自体がどういうものかは、全く人間には理解不能で、どのようなものか考えることもできない。というあたりです(うるさい人は「全然違う」とか言いそうですが)。



時間とか空間が客観的世界の問題ではなく、人間の認識形式だという考えは、自分の中ではだいぶ根が張ってきました。
たとえば、物理学が「宇宙は今も膨張している」言っっているのを聞くと、人は「膨張しているその外側は何があるのか?」と考えてしまいます。「ビッグバンから全てが始まった」とか言われても、「ビッグバンより前には何があったのか」と考えてしまいます。



つまり、無限の空間とか無限の時間というのは、物理学が言っているもの科学的なものではなく、人間の認識形式なのだろうと思います。だから、それに反すること、つまり空間の限界や時間の限界を物理学がいうと、何か変なことを言っている、騙されているという気がしてしまうのです。



まあ、世界が本当は得体の知れないもので、人間が思い浮かべている客観的世界は脳が作り出した作品であることは、色は人間の目がつけているもので、客観世界の光は音と同じで高低と大小しかないとうことだけからでも、理屈としては明らかなのでしょう。とはいえ、そういうことを実感として理解することはできないようになっているとも言えます。



とはいえ、人間の認識構造、時間とか空間とか因果関係とか色とか数とか計算式とかは、人間が普通の生活をしている環境を整理して理解するにはちょうどよくできています。単に、ビッグバンとか、宇宙の果てとか生きる上で不要なことは理解できないだけです。



そして量子力学が示す世界も、人間の認識構造の限界を超えていていて、何だかよくわからないのです。
波であり粒子であるものを思い浮かべることができない。つまるところ、人間の空間認識の枠組みでは認識できない何かなのではないか?
観測した場合としなかった場合で状況が変わってしまう。主観的な認識に関わらず存続する客観的な世界というものも、人間が作り出した認識の枠組みなのではないか。
時間が遡っていると解釈するのが自然な現象→不可逆的な時間の流れという人間の認識構造からすると理解できない。
自分も世界もどんどん増えているかも→理解の構造を超えている





ということで、理解はできない。とはいえ、量子力学は、全く意味不明ではあるけれど、計算式を適用することは可能で、技術的には十二分に役に立っている。
これは、理解不能な物自体に時間や空間を当てはめて、実生活を送ることができているという状況とパラレルなのではないかという気がします。
ということで、量子力学の意味不明さは、物自体ということを理解するのに、少し役に立ちそうです。

医術と呪術

土曜日, 9月 18th, 2021

昔の人は、天災を為政者のせいにして云々、とはよく言われますが、「昔の人も」というところでしょう。
「これは天災ではない。人災だ!」等とワナワナしだす人が出て、ヒタヒタと伝播していって、なんだか総理大臣交代です。



人は病気にかかると、誰かに何とかしてもらいたくなります。そのような意識構造が生み出したのが医学と言えましょう。治るから医学が生まれるのではなく、人間の意識が医学を必要とするから医学が生まれる。現代医学を前提にすると「何を言ってんだ」となるかもしれませんが、現代医学からみて「有害かよくて無意味」な場合のほうが多い行為が、人類の大半の歴史において医学として尊重されていたことを踏まえれば、そういうことになろうかと思います。
昔話で、病気の親のために自らを犠牲にする美談があります。でも、その結果もらった薬というのは、カエルを干して粉末にしたようなシロモノだったのでしょう。これは、いじわるな笑いをするための話ではなく、たとえそうであっても、人間は医学にすがらざるを得ないという話です。
で、人間は理屈っぽいので、病気を治そうと思うと、病気の原因を考えついて色々理屈をひねり出します。悪魔か、キツネか瘴気か、そういった原因と理論を作り出します。で、それに基づいた医術を施す。色々な煙(キツネが嫌がる臭いがする)をたいたり、お経を読んだり。ということで、呪術です。医学も宗教も、人間の意識構造が生んだ普遍的な現象なのかもしれません。



さて、霊感商法というものがあって、高価な壺を交わされた人は、何か不幸が起こっても、「この壺がなければ、もっと大変なことになっていた」といって壺に感謝する。こうなってしまうと、壺の呪縛を解くことはなかなか困難です。
さて、マスク。日本中どこにって行ってもマスク、マスク。私も、一時期は日本での感染者が少ないので、思わぬデメリットがある可能性もあるが、感染予防には効果があるかもという気もしました。でも、感染者はどんどん増えます。どんなに増えても、「マスクをしていなければ、もっと感染者が増えていた」ということなのか、マスクの効用を疑わない。何が起こったらマスクをやめることになるのか、誰にもわかりません。
霊感商法を信ずる集団は、それに疑いを持つ者の行動を監視して、怪しい行動をする者に適宜社会的制裁を加えて、団結を維持するともいわれています。マスクもそんなところでしょうか。



ワクチンの接種が順調にすすんでいます。いつの間にか接種率がずいぶん高くなっています。
さて、ワクチンが安全だとか言っている人がいます。
今回は、通常の場合のワクチンの審査を端折って、特別に短期で承認したんです。もし、これで安全だって言えるなら、今までの審査体制に根拠がなかったということです。そんなことないでしょう。
現状からすれば、ワクチンは安全だとは言い切れないが、ワクチンを打った場合の感染率の低下や重症率の低下からすれば、打ったほうがひどい目にあう可能性が低そう、というあたりでしょう。ただ、重症化の確率はその人の属性によって大幅に違うし、今後の人生の長さ(つまり現時点で把握できな長期的なデメリットの可能性)も違う。なので、誰にとってもワクチン接種の合理性があるかは、なんとも言えないということでしょう。
とはいえ、社会全体として考えると、ワクチンを打った人が多いほうがよいとも言えます。そうなると、安全だと言ってみたり、その他いろいろ言って、何とかワクチンを接種させようという意図が社会全体に生まれます。
そんなときは、タブーです。夜に口笛吹くとどうのとか。体の一部を加工してみたり。最近のトレンドでいえば、聖典の民たちが同性愛を禁じたりしたあたりも、社会全体の目的を達するためのタブーといえそうです。



そんなことをしているうちに急速に感染者が減ってきました。別に自粛する人が増えたわけでもないのに。色々、理由を言っていますが、「わからない」というのが正直なところでしょう。
ウィルス学とか免疫学の最前線を紹介するような本をみていると、いずれも従来の常識を覆す発見が相次いでいる状況です。10年前の常識は通用しないようなレベルです。今回の問題について考えるだけの知見は人類は得ていないのです。で、正直な専門家は、色々聞かれても「わからない」というのでしょうが、そういう人は相手にされないので、専門家の意見として思い付きをペラペラしゃべる人の意見が世間に満ちます。
おそらくのところ、よくわからない機序によってウイルス感染者は減ったり増えたりするのだと思います。インフルエンザも、いつの間にか流行が終わります。冬は乾燥して湿度が低いから云々とか、また専門家ペラペラが言いますが、インフルエンザは、どこからきたのでしょう?高温多湿な香港だった気が。高温多湿な国でもインフルエンザは流行します。以前BBCを聞いていたら、風邪だかインフルエンザだかが冬に流行するのは、冬は曇っていて日光が少ないからだなんてことを専門家が言っていたように私の耳には聞こえました。きっと、イギリスの冬はそうなのでしょう。自分の経験の範囲で、思い付きをペラペラ話すものです。
そんなわけで、現状ウィルスや免疫がからむことについてペラペラが話している理屈は、大方その機序が判明した未来からすると、キツネがついたとか瘴気がどうのとかいうのと同レベルの話なのであろうと思います。



そのようなわけで医術と呪術が厳密には異なるものであることが、お分かりいただけたかと思います。