Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

不可解

木曜日, 4月 30th, 2020

ウイルスは見えないし,臭いわけでもない。つまり,人間の認識構造は,ウイルスを認識できるようにはなっていません。



それ以外にも,人間には,わかっても良さそうだけど,認識できないことがたくさんあります。
10%と1%と0.01%の確率の違いも,うまく認識できません。
現状,日本のウイルス感染者は,1万人に1人程度(つまり0.01%)。で,発見された人は既に適度に隔離されていると思いますので,町中に未発見の感染者が同程度いるとして,感染者は1万人に1人。その1人から感染する人数は数人。つまり,今感染するためには,1万人に1人に出会って,その人が感染期間中に接触した人の中で,濃厚接触度上位3人以内に入る必要がある。という状況です。



1万分の1の可能性でいうと,40代の人が,何らかの理由で1ヶ月以内に死んでしまう可能性という確率です。つまるところ,可能性はゼロではないが,そのような可能性まで考えて行動はしないという確率です。



ところが,10人乗ったエレベーターで咳でもされようものなら,恐怖に身が震えてしまいます。仮に,10人に一人の割合で感染しているのであれば,もう日本中で1千万の人が感染していることになります。その上で,現在の死亡者数,重傷者数ということであれば,危険性はとても小さく,ただの風邪とほとんど変わらないということになります。うつったって大したことないはずです。



現実の感染者数は,1万人に1人か,5,6人に1人かの中間的なところにあるのでしょうが,いずれにしろ,その中間点で危険が急に高まるということはないと思われます。



つまるところ,10%であれ,0.01%であれ,「可能性はゼロではない」という定性的表現でまとめあげられて,頭の中で同じものと扱われてしまう。その結果,0.01%を前提にした危険性と,10%を前提とした感染の蔓延がつながってしまうものと思われます。



そうは言っても,「知り合いの知り合いで感染者が出ている」んだから,身近なところに迫っていることは確かだ,と思うかもしれません。
今度は,人間は指数関数的な状況が理解できないという話になります。指数関数というのは,○乗というところがxになるやつで,2の1乗=2,2の2乗=4,2の3乗=8というやつです。このあと急激に上がっていきますが,それが予想以上に上がっていってわからなくなります。また,これが2より数字が大きくてもわからなくなります。
仮に知り合いが100人+αいるとします。そうすると知り合いの知り合いは1万人いることになります(αを共通の知人とします)。そうすると,知り合いの知り合いというだけで,人口1億の社会では,1万人に1人に到達してしまいます。
大抵の人は,知り合いの知り合いの知り合いには,超有名人がいるものですが, 知り合いの知り合いの知り合いであれば100万人いることになり,日本に100人しかいない超有名人に辿り着いてもおかしくないわけです。



これは「馬鹿なヤツはこういうことが分からない」という話ではなく,人間の認識とはこういうものだということです。目が悪いからウイルスが見えないのではなく,どんなに目が良くてもウイルスは見えません。



ただ,ここで災害が起こって避難すべきとき,なにかの事情で医者に行ったほうが良いとき,いったん自分の怯えた理性に蓋をして,こういう視点で考えてみるのも良いかもしれません。

apple mask

月曜日, 3月 30th, 2020

コロナウイルスにまつわる諸々は,分からないことだらけです。
自粛関係も一体何を目的としているのか,いまいちよくわかりません。



わからないことの一つは,咳エチケットです。
無症状の人が,どんどん感染を広げているのであれば,咳と人に感染させることとはあまり関係ないのでは?という気がします。
となると,嫌な予感がするのは,「無症状でも,ウイルスに感染している可能性がある。それを防ぐためには,みんなマスクをすべし」というルールが生まれそうなことです。マスクは自らの予防ではなく,あくまで他人への感染防止なのですが,症状の自覚の有無に関わらずマスクをしろ,ということですね。それが本当に感染予防になるのかなんてどうでもよく,勢いで何かそういうことになってしまいかねません。



ここのところの人類の大半は,頭部(顔面を含む)・首,手の先端(社会と性別によっては足の一部)以外は布等で覆うという社会的風俗を有しています。コロナ後の社会においては,これに加えて,口周りも覆うべしという風俗になるかもしれません。



そうなるとアップルは黙っていないでしょう。実を言うと,最近は臭気センサーの高性能化,小型化,低額化が一気に進んでいます。少し前に,kunkunbodyという口臭測定器を買ってみました。電源を入れてから使用までに時間がかかる等,もう一歩の感じがありますが,なかなかの性能です。
仮に,センサー付きのマスクが口元で待ち構えていて,呼吸数だけでなく,口から排出される様々な化学物質を測定できるとしたら,applewatchが測定しているどころではない健康上重要な情報が得られます。
おそらくは,今までのマスクとは違った,見せびらかしたくなるようなオーラをまとったapple maskが登場するのでしょう。
しかも,マスクですので,一部パーツは毎日取り替えが必要で,これをアップル価格で買ってもらうとなると,かなり魅力的な計画になりそうです。



そうなると,どうしても,次に健康情報把握のための化学物質把握センサーを付けて提供したくなるのは,やはりappleWCでしょう。が,そこまで踏み込むかは,なかなか難しい判断になりそうです。





ウイルス

金曜日, 2月 28th, 2020

世の中,コロナウイルス一色です。



私は,ウイルス関係のそれなりにかたい本を3,4冊,免疫関係の本も2冊くらいは読んでいるので,だいぶ,そういったことについては分かっているはずです。



もちろん,もっと詳しい人は,腐るほどはいないとしても,かなりいます。でも諸々の研究の結果,詳しすぎる人は物事を適切に予測したり判断できず,むしろ軽く知っているくらいが一番よいようです(ファーストアンドスローより)。まあ,なかなかの具合なんだろうと思います。



で,結局,ほとんどわかりません。人々が,色々なことを述べ奉っていて,それがおかしいことは分かったりもするのですが,では,どうなのかというと,わかりません。



ということで,あとは無事を祈るしかありません。このあたりは,古来,人間が行ってきたことです。



東アジアの一部の国々では,人体の一部に魔除けを張ることによって,邪悪な病から体を守ることができると信じられているようですが,そういったことも効果があるのかもしれません。



1年を振り返る頃には,「コロナウイルスって今年のことだったけか」と言えるようになっていたいものです。

考えは量子的?

水曜日, 10月 30th, 2019

久しぶりに物理学系の本を読んでいますが,やはり量子力学というのは,感覚的な把握が難しいですね。数学的理解をすれば違うのかもしれませんが,ちょっとそこまでは無理そうです。
というところで,これ以下に書くことは,私なりの適当な理解に基づいて書いています。



量子の不可思議な性質のひとつに,どこにあるのかはしっかり確定できず,どこにある確率は〇%,どこにある確率は△%というふうにしかわからない。ただ,観測すると,どこかにあったこと確定してしまう。というようなものがあります。



そういうものが世の中にない気がしているので,想像できず理解できない。というのが一般的なところです。



でも,人の意見とか考え,気持ちなんていうものは,同じようなものではないかと思います。



ある人に,意見なり(政治的意見にしろ,プロ野球での起用の是非にしろ),好み(食べ物にしろ,人にしろ)を聞いたら常に確定的な答えが返ってくるかというと疑問です。そのような実験は無理ですが,あるタイミングで聞いた場合と,その1時間後に聞いた場合とで,同じ人が同じ問題について異なる意見や好みを表明するということはいくらでもあるだろうと思います。
少なくとも,自分の考えの動きを観察している限りは,そういうことになりそうな気がするし,他人がそれと異なるという感触もありません。



ただ,ある意見をひとたび口外してしまうと(少なくともその人との関係では),その人の意見は確定的になっていく面があります。
つまり,聞く前はある人の考えは,聞くタイミングによって〇%でA意見,△%でB意見という実態があり,実際に聞くとA意見なり,B意見に確定するというのではないか,ということです。。



となると,量子的な出来事は,自分の頭の中で巡っている考えだったり,身近なおしゃべりだったりという形で極めて身近な可能性があります。
それでも,理解できないのは,身近でないからではなく,人間の認識構造がそういうことを拒否するようにできていることが理由の気もします。
上記に書いたように,人の意見や考えが実際にはかなり適当で,聞くタイミングによってコロコロ変わるに違いないとかいうこと自体を,人間は理解できなような認識構造を持っている,自分の考え・意見・思いは確定的でしっかりしたものであるということを前提に物事を考えるようにできているのかも,と思います。

蚊と進化論

火曜日, 8月 27th, 2019

趣味の方向性が変わってから初めての夏
 ということで今年は蚊に刺されまくっています。
この10年で刺された分くらいを,今年だけで刺された気がします。



不愉快な思いをすると,頭は色々と理屈をひねり出します。
本を読んでいると,生物の現状を説明するために進化論が持ち出されます。
 例えば,キリンの首が長いのは,生存競争上,首が長いほうが有利な環境にあったから,首の短いキリンモドキが淘汰されて,今のキリンが生き残った云々というあたりです。
いかにも有利なイメージを抱きやすい特徴は,進化論で説明しやすいです。



では,蚊にさされやすいのも,同様でしょうか?
 人間が蚊に刺されるのは,生存競争上,蚊に刺されるほうが有利な環境にあったから,蚊にさされない人間モドキは淘汰されて,今の人間が生き残った
ということになりそうです。



蚊に刺されることが生存競争上,有利になること等ありえないか,というと理屈の上ではメリットをひねり出せます。
 たとえば,蚊が何らかの病原体を適度に媒介してくれるおかげで,蚊にさされる人間には抗体が生まれて,直接感染の場合に病気にならない,または軽度で済む蚊のワクチン効果!なんてものがあるかもしれません。



進化論は科学とはいえない。なぜなら,何でも進化論で説明できてしまうから,という話を聞いたことがありますが,上記の蚊のことを考えると,そういう気もしてきます。



それにしても人間の血を好む蚊は,人間より後に出てきたのでしょうか?それとも,それ以前は人間以外の血を好んで吸っていたのでしょうか?



なにより不思議なのは,蚊がわざわざ音を立てて飛んできたり,吸った後に腫れてかゆくなることです。
蚊の音が人間に聞こえるのは,蚊の音を聞くことができる人間が自然淘汰によって生き残ったのか?それとも,人間に聞こえる音で飛ぶ蚊が,自然淘汰を生き残ったのか?両方なのか?
蚊にさされた後にかゆくなる人間が自然淘汰によって生き残ったのか?それとも,人間をかゆくする蚊が自然淘汰によって生き残ったのか?両方なのか?



人間にとって,蚊の音を聞くことができることや,かゆくなることが,それほど生存競争上有利とは思えません。すくなくとも精神衛生上は不愉快なだけです。
蚊にとっても,ひそかに近づいて,刺したことにも気が付かれないほうが有利な気がします。
人間の皮膚に住み着いていると思われる,目に見えない程小さなダニの類はきっと,ひそかに血をすって関心ももたれずに,生活しているのではないかという気がします。



そのようなわけで,かゆくなるだけでなく,思考に混乱をもたらす蚊との格闘は,まだしばらく続きそうです。

禁煙文化遺産

月曜日, 7月 1st, 2019

健康増進法ということで,学校や病院で禁煙強化というニュースをやっていました。



私が司法修習をしていたころは,喫煙者も多く,喫煙場所にタムロしていれば,修習性同士のちょっとした情報交換だったり,裁判所での修習中ではベテラン書記官からちょっとしたネタを色々教えてもらったりして,それなりに有用だった気もします。



私もタバコをやめてから20年近く経ちます。喫煙が有害だったとしても,20年程度で非喫煙者と同程度になるという話もあるので,法律的に言えば時効といったところです。



さて,国を挙げての猛烈な禁煙運動により,喫煙率は大幅に下がっています。
http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html



タバコを吸う人が減ったという面では成果が上がってきていると言えます。



でも,なぜ,禁煙運動をするのか?
何と言っても,肺がんをなくすためだろうと思います。



で,
https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/annual.html



少しスクロールしたとこにある,部位別がん年齢調整死亡率の推移です。肺がんは90年代はじめまでどんどん増えていって,そこから,目を凝らすと少し下がっているという感じです。
この「少し下がっている」部分を,「大幅に成果があがっている」と主張されているガン治療の成果と分け合うことになるわけです。
現在のところ,禁煙運動は,肺がん死亡者を減らすという点ではほとんど成果が上がっていないように,私には思えます。



「いやいやこれから下がる」のだということなのだろうと思います。
でも,もう50年近く前から喫煙率は下がり続けています。もうすこし明確な成果が出てもよい気もします。このグラフを見る限りは,そろそろ禁煙運動に対して「本当かな?」という目をもってもよいのかな,と思います。少なくともあと20年経っても,グラフに変化がないのであれば「いい加減,やめたら?」と言ってあげたほうが親切かもしれません。



人類は古来病気と闘ってきました。まじないをしたり,色々なものを食べさせたり,生贄をささげたり,巨大な物を作ったり。
今の我々からみれば,「そんなことで病気を防げるわけがない」ということを大真面目に,必死になってしてきたわけです。
我々も彼らと同じ人間ですから,同じようなことをいくらでもする可能性があるといえます。科学だ医学だと言っても,ほんの100年程度(場合によっては何十年)遡るだけで,今から見るとおかしい治療法が常識だったのです。その時代の人も自分たちは科学的/医学的に病気と向き合っていると思っていたわけです。



もっとも,病気に対して効果がななかったとしても,その中で人類が作り上げた巨大な建造物や,怪しげな踊りは文化的な価値があることもあります。



仮に現代の禁煙運動が未来の人からしたら馬鹿げていたとしても,喫茶店にある檻は文化遺産として人々の知的好奇心をくすぐるかもしれません。



裁判のIT化

金曜日, 5月 31st, 2019
裁判所がこれから10年で大きく変わりそうです。

法曹界は,いまだにFAXが主要な連絡手段という状況ですが,大幅に変わりそうです。
とはいえ,弁護士の抵抗によって骨抜きになってしまわないよう裁判所には頑張ってもらいたいと思います。

裁判所も現状は,調停にIPADを持ち込んだら文句を言う調停委員がいたり,少し遠めの裁判所で電話会議を求めると「その距離では来てもらっています」とおっしゃったり,IT化の方向性にそぐわない態度が散見されますが,最高裁の意向があれば概ねスムーズに移行すると思います。

弁護士は逆らうことも仕事のうちです。それはそれでよい方向に行くこともあるのですが,おそらく裁判のIT化では自分の学習意欲のなさや変化嫌いに屁理屈をつけて抵抗することが予測されます。
当事務所では,弁護士の業務内容の分析をしていますが,大きな割合を占めるのは移動時間です。最終的にはこの移動時間相当のコストを依頼者が負担していることになります。人一人を拘束することのコストは大きなものです。タクシーの料金を考えればわかると思います。
裁判のIT化がうまくいって弁護士業務に占める移動時間が大幅に圧縮されることによるメリットは大きいといえます。

いずれはペーパーレスになるようですが,一番気になるのは委任状の扱いです。
訴状は電子的に申請しても,委任状は郵送なんて馬鹿な運用が定着するのも困りものです。
でも,どこかのサイトにアクセスして,そこで特定の弁護士への委任を登録するということの実現には,マイナンバーによる電子申請の普及が必要だろうと思います。現状のマイナンバーの状況からすると,どうなんだろうと思います。

とはいえ,委任について委任状に押印不要という社会的状況になってくれば,諸々の法律上の重要文書に押印ということもなくなってくる気がします。電子的な契約書のサービスの試みもありますが,正直,メールやチャットのやりとりさえ残っていれば,契約の成立の立証に不足はない気がします(例えば「添付ファイルの内容の契約書でよいですか」返信「OKです」というやりとり)。ですから,一定の重要な契約書には電子的な契約書の認証は必要かもしれませんが,基本的には紙の契約書的発想の名残のような気もします。

いずれにしろ今後10年,20年で法律実務は大きく変わりそうな気がしますので楽しみです。

なんの因果

木曜日, 3月 28th, 2019
昨年の今頃に,瞑想用ヘッドセットなるものを買ってみたところ,
普通だと数分も耐えられない瞑想が,10分20分とやっていられることがわかりました。
そして,気がつくと,1年以上,毎日継続していました。
言ってしまえば,宿泊付きの用事や夜のつきあいがほとんどない生活だから,ともいえます。

これだけ瞑想を続ければ,多少,悟りも開けてきます。
ひとつの悟りは,現代人として叩き込まれてきて,常識化している自我とか,人格とか,自分自身の意思とでもいうものは,およそ実態のないものなのではないかという気がするあたりです。
自分の意識の流れは,たいていのところ考え事のようなものが適当に流れていって,ふとわれにかえる。
そのうち,別の考えが流れてきて,しばらくするとわれにかえる。
気になることがあるときは,そのことを考えないようにしようと思っても,気がつくとその考えにとらわれている。
おそらく1分後,30秒後に自分が何を考えるかということすら制御どころか予測も困難。
何も考えないようにしていても,気がつくと何かの考え事をしている。
人の意識の中身なんていうものは,こういうものに過ぎないとすると,自分の意思だなんだというのに,何らかの価値があるのかと思います。これは自分のみならず,人様についても同じで,このような意識の適当な流れがあるのにすぎないのに,人の考えがどうのなんてことに意味があるのかとも思います。

そして,瞑想中だけでなく,行動中もほとんど何か考え事をしていてわれにかえる。を繰り返していて,
きっとわれにかえらなくても,行動はきっと,つつがなく行われるのではないかと思います。
脳や神経の実験検査をすると,行動しようと思う前に体は動き出しているとのことです。
体が動いている様子をみて,自分が動かしているんだという幻想をみているのが意識ということです。

このあたりで二つ目の思いつきも出てきます。
ものごとの因果関係とか,理由とか原因なんていうのも,人間が作り出した幻想と思われます。
ただ,自分も人間である以上,それが幻想であること,つまり,認識の対象となる世界は因果関係などないことは,イメージがしにくいです。
でも,因果関係の枠組みでは理解できない出来事があれば,そもそも因果関係なんてないのではないか,という考えも強くなります。

さきほどの行動と意識との関係。つまり意識は行動の原因になっていないという状況は,人間には理解し得ないといえます。
どう考えても,自分の意識によって体が動いています。
勝手に行動してくれるから,意識は適当にしてしまえ,とやることはできません。
でも,時間の先後関係,客観的とされる因果関係からすると,意識が行動の原因という考えは間違っている可能性が高い。因果関係という考えが正しければ,意識は行動の原因ではない。
とすれば,そもそも時間の先後を前提にした原因と結果,因果関係という枠組み自体ではとらえきれない,何かなのではないか,という考えもありえます。
ここより先をすすめて考えることが人間にできるのかはよくわかりませんが,因果関係という枠組みに多少の疑念を差し挟む一事象といえるかもしれません。

ノセボ

木曜日, 2月 28th, 2019
本を読むことのメリットのひとつは,今まで自分が持っていなかった言葉が手に入り,思考がより進むことです。

昨年手に入った言葉のひとつは,ノセボです。
ノセボというのはプラセボの逆です。
プラセボは,本来効き目のない薬を効き目があると思って飲むと,本当に効いてしまうというものです。
ノセボは,本来体に悪いわけではないのに,毒かなんかだと思うと,本当に体調が悪くなってしまうというものです。

さっき食べたものが「実は2週間前の残り物だよ」と言われたら急に吐き気がしてきて,本当に吐いてしまうというのがノセボです。

人間の多くの体調不良,心の傷とかそいういったものの多くはノセボなのではないかという気がします。
「また体調が悪くなるのではないか」と心配したり,「体調が悪くなってもおかしくないようなひどいことをされた」と思うと,ノセボによって本当に体調が悪くなってしまう。

人が幸福かどうかのかなりの部分は遺伝によって決まる,つまり,幸福を感じやすい人は過酷な環境でも幸福だし,不幸を感じやすい人は恵まれた環境でも不幸せになるという身も蓋もない調査結果もあります。
おそらくはプラセボやノセボは,素質的な幸福感や不幸感の基礎の一つなのだろうと思います。

現在の司法の運用がそうなっている以上,当事務所もそれに即した仕事をしていますが,個人的には心の傷のような得体の知れないものに国家権力が振り回される,つまり心の傷の程度というものを裁判所が認定してそれに賠償を命じるというのは,極めてオカルト的なので,いかがなものかと思っています。
ノセボの研究が進み,この人が苦しんでいるのは遺伝的なものであって,ノセボ現象によって体調が悪くなっているのですということがわかるようになると,そのあたりが変わってくるかもしれません。

無為の為

木曜日, 12月 6th, 2018
老荘思想に無為の為という言葉があります。
高校の頃に触れて,ただ何もしないのではなくて,なさないことをなすのだと言われても
いまいちピンと来ませんでした。
私は怠け気質なので,そんなこと言われなくても何もしませんよ という気分で,それ以上は屁理屈感を感じていました。

とはいえ,逆説的,天の邪鬼的な言葉は好きなので,常にひっかかっている言葉でもありました。

なんとなく,感覚的に理解できたのは,つぎのような比喩を思いついたときです。
かゆいのを我慢する。
かゆくなれば,思わずかきたくなる。それをしない。これが無為の為なのではないか。
かゆいのにかかないというのは,なかなかエネルギーのいる無為です。
そして,かゆいからといってかきまくっていると,それなりにダメージが出ますので,無為を為すことが大事です。

でも,かゆさの問題以外には,いまいち発展性がありませんでした。

ただ最近のように仕事のメインが組織の運営になってくると,仕事上の「かゆみ」のようなものが色々と出てきます。色々と口を出したくなったり,色々と企画したくなったりします。
そして,30人程度の組織の運営をしていると,たいていは自ら実務に直接携わる機会は減り組織をよりよくするための仕事をしたくなります。
会議をしたり,朝礼をしたり,組織の理念を作り上げて皆に浸透させようとしたり,
頑張っている人に報いるために複雑な評価システムを作り上げたり
業績がいまいちな人に発破をかけたり
経営計画を立てたりと,経営者として殊勝な行いをしたくなります。
これが「かゆみ」なのではないかと思うのです。
もちろん,これらが無駄なのかどうかはわかりません。
でも老荘思想的な発想からすれば,
そういうことはしないほうがうまくいく
ということであり,これが無為の為なのではないかと思います。

老荘的なリーダー論では
一番よいのは,そういう人がいることを知られているだけ
二番目は,親しまれて褒められる
つぎは,恐れられる
一番ダメなのは,あなどられる
というのがあり,これは好きな言葉の一つです。
それを支えるのが,かゆみに耐える,かいた瞬間の快楽の誘惑に耐える
「親しまれたい」「褒められたい」という快楽の誘惑に耐える
ということなのかな,と思います。