Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

汽の字

月曜日, 4月 30th, 2012
少し前の話ですが、子供の学校の教科書を見ていて、
2年生の漢字として、「汽 」という字があることを知りました。

びっくりです。こんな字使いません。
別に常用漢字だか当用漢字だか、からなくしてしまって
汽車を気車にしたってかまわないでしょう。
蒸「気」で動くんですから。
汽車自体、そんなに古いものではないですから、
漢字の歴史に関わるといって泣いて抗議する学者も
いるのかいないのか、というレベルと思われます。

何にしろ、なんらの見直しもなく
このような漢字を全国の小学2年生に教え続けるとは、
「愚の骨頂」という言葉を教えてあげたほうがよいかもしれません。

とはいえ、他山の石という言葉もあります。
他人事ではなく、こういうことは当事務所内でも潜んでいるのです。
こういうのを歴史的合理性と名づけて、定期的なゴミ取りを意識しています。
歴史的合理性とは、今、そのことをする合理性はないのだけれど、
事務所の現在の事務体制ができる歴史を振り返ると、
そのような意味のない作業が生まれた合理性が説明できるということです。
気をつけていないと、この手のゴミはどんどん事務作業を圧迫していきます。

ところが、もっとやっかいなのは、歴史的な合理性以外にも
一応、合理性が説明つく場合もあることです。

おそらく、汽の字も、色々理屈を述べ立てる人がいて
現在まで生き残ってきたのでしょう。
そうなると、ドラッカーの計画的廃棄に基づいて
今新しく2年生の漢字を決めるとしたら汽の字を入れるか?
と考えてみるのがきっと、屁理屈対策には一番でしょう。

さて、そんな汽の字ですが、もしかしたら、
歴史的合理性なんていう野暮ったい言葉に代えて
「汽車の汽 」と名づければ、新しい役割と意味を持つかもしれません。

試すこと、調べること

日曜日, 4月 29th, 2012
大学の頃、つまり20年程前のこと、どういう経緯か
「ヘッドフォンをマイクの端子にさせば、マイク代わりになる」
と言ったところ、デタラメを言うなということになりました。

実は、さらに昔の高校の頃、山岳部で映画を作った
ことがあり、そのときにヘッドフォンをマイク代わりに
使ったことがあったので、私は自信満々だったのです。

でも、このような体験を話しても、普段の行状のせいか
相手にされません。
そして、そんなに言うなら「試してみろ」ということになり
私は勝利を確信して、目の前のラジカセに手持ちのヘッドフォン
を差し込んで、実験開始です。

ところが、何故か、うまくいきません。
ヘッドフォンにウォークマン操作用のリモコンだか、
音量調整だかが付いていたのが悪いのか、
うまくいかないまま敗れ去りました。

もっとも、私自身、普段の行状が幸いしてか
失敗したからといって沽券に関わるわけでもないので、
再挑戦をするわけでもなく、そのままになっていました。

最近になって「ふと」できるはずということを確かめたくなり
ネットで検索すると、やはりヘッドフォンはマイクになると
書いてあります。

今の大学生であれば、ネットで調べて決着がついたのでしょう。
ネットがあると、つい便利に調べられるので、自分で試してみることを
しなくなる・・・なんて思いますが、実際に試してみたからと言って
正しい実験結果がでるわけではないということで、一長一短ですね。

本来合理的なこと

水曜日, 4月 11th, 2012
たいてい慣れ親しんだ仕方が、楽なものですが
そうでもないかな、と思うことが続きます。

前回書きましたが、先日、代車で久しぶりに国産車に乗りました。
輸入車と言っても、今は車又は所有者の趣味性が強くない限り、
右ハンドルです。

でも、ウィンカーが逆なんです。
国産車は右で、輸入車は左。
で、輸入車に乗ると、これに慣れるまで苦労します。

とはいえ既に7年乗っているので、左側のウィンカーレバーに慣れていたのですが、
国産車に乗って右側ウィンカーレバーに変わっても
以外に早く慣れました。

ところが、元の自分の車に戻って左のウィンカーレバーに
なかなか感覚が戻りません。

これはそもそも右側の方が、感覚的な動きに素直なせいではないか
という気がします。

ところで、手帳は今だに昔のPDAであるクリエを使っています。
ただ、毎年1回、上部のヒンジが壊れて、修理に出します。
そして、また壊れました。
そこで、いっそスマートフォンに切り替えようかと思って、色々試し始めています。

クリエの入力方式は、graffitiというpalm独自の入力方式で、これがとても合理的です。
ところが、私の使っているクリエは、このgraffitiが何かの権利侵害で訴訟になって、
本来のgraffitiを修正したgraffiti2という入力方式を使っています。
元のやつは、独自の簡易アルファベットですが、2はほとんどアルファベットの小文字と同じ
入力をします。

で、2になったときに、前のほうがよかったなあ、と思っていたのですが、
これも8年ほどは使用しているので、もう慣れています。

ところでandroidのスマートフォンでは、本来のgraffitiが使えますが、2は使えません。
で、久しぶりに本来のgraffitiで入力し始めましたが、これが随分楽に感じます。

やはり、そもそものgraffitiのほうが、合理的だったようです。

 

巨人、6選手に高額契約金

木曜日, 3月 15th, 2012
本日の朝日新聞の一面です。
高橋由伸選手も出ています。

そう、高橋は、ヤクルトに来るはずだったんです。
本人もヤクルトに来たかったようで
ヤクルトファンも楽しみにしていたのです。

ところがドラフト直前に、巨人に。
裏で何があったんだ、と色々話になりました。

きっとヤクルトに来ていたら、ヤクルトの黄金時代は
高橋を中心にもう少し長くなって、
高橋は、適当なところで、メジャーに行って
今より、もっと輝かしい選手になっていたんだじゃないか?
と今でも思っています。

そして、今日の記事に出ていた二岡も
確か広島に入るはずだったのが、
直前に突然に巨人にという
高橋と同様の展開だった気がします。

今頃になって、ようやく当時のカラクリが
少し明らかになったようです。

いつからこうなったのか??

木曜日, 3月 8th, 2012
なんて,大げさですが,子供の頃には,
アメリカ人は交通事故を起しても決して謝らない,
謝るとあとで不利になるからだ,なんて聞いてびっくりしましたが,
今の日本では,ごく当たり前の感覚になっている気がします。

おもわず誰かにぶつかって,転ばせて怪我させてしまっても,正直
「すみません」では済まず,賠償問題が当然というのが
仕事をしている上で,受ける感覚です。

私は外国のことにはうといのですが,伝聞では
外国のスキー場はどこを滑ろうが基本的に自己責任で自由
という話も聞きます。
事故があってもスキー場の責任だと騒がれるリスクがきっと少ないんでしょう。

また,電車の事故などで,会社役員の刑事責任追及なんて
最近無罪になりましたが,事故が起きたときには
個人責任追及よりも事故原因を追及して予防するのが
アメリカなりのやり方とも聞きます。

最近の日本人的感覚だと,不幸が生じたら
その原因を誰かに帰して,そいつを吊さない限り
気が済まないということなのか,という気がしてきます。

いつの間にか,エキセントリックで非寛容な国民になってしまったかのようです。

弁護士を増やして訴訟社会にするのは日本人の感覚にはなじまない
なんて,まるで日本人が和を好む国民であることは当然の前提のように
語られます。

でも,本当はいつのまにか,日本人は世界的も稀な程,非寛容で
訴訟好きの国民になっていて,
その必然として,弁護士増やそうという話が容易に受入れられたのかも知れません。

何故,そうなったのでしょうか?
よく分かりませんが,あまりにも,客観的な不幸が減ったからかも,
と思う気がします。

普通にしていても,思わぬことで怪我したり病気になったり,死んでしまったり
があたりまえであれば,不幸はふってくるもので,誰かにせいにしません。

でも,特段のことがなければ,不幸がなければ,不幸になったのは
例外的なことで,その原因追及という発想になります。

もし,医学が驚異的に進歩して,特段のことがない限り,人間は死なないということになったら,
人を死なせてしまうことの重大性は,今よりはるかに大きなものになるでしょう。
そんなことかもしれません。

法律では,傷害という概念があります。
身体的に受けた怪我で,すぐなおるようなかすり傷は,傷害にはいるのかどうか
(全治1週間なんて,蚊に刺されたって一週間くらいはれている)
というレベルが,そもそもの感覚だったのではないかと思います。

それがかすり傷も当然,傷害になって,
心の傷も,問題になって
将来健康を害する可能性が高まること(タバコの副流煙等)も問題になって
今,問題になっているのは,将来健康を害する可能性が高まると,将来言われるようになるかも知れないということです。

以前に書いたように,法律家の論理は社会通念・常識に従属します。
ですから,社会の感覚がこうなっていくと,それに従属しながら,それにあった仕事をすることになります。
いつかこのような流れは変わるのでしょうか?

会務なるもの

金曜日, 3月 2nd, 2012
先日,弁護士には,弁護士会内部の面倒仕事として
「会務」なるものが,あると書きました。
この会務は,会報を作るような事務的な委員会以外に,
人権活動・公益活動を目的とするような委員会が多数あります。

ところが,多くの弁護士は,この会務にとても熱心です。
それは,多くの弁護士のホームページの弁護士紹介欄に,
充実の会務経歴が書き込まれていることから分かります。

何故,弁護士は会務に熱心なのでしょうか?
おそらく,このようなことではないかと思います。

今までの弁護士の経歴としては,
例えば東大法学部に在籍し,友人の中でも優秀なほうで
同じ程度に優秀な友人は霞ヶ関で官僚になり,
劣る友人は大企業に就職し,そのうち幹部になる。

友人達は,公であれ民間であれ,国を動かしたり,
国際的に大きな意味をもつ仕事
をするようになります。

ところが弁護士は,個人の事件をしたり,
企業にからんでも,紛争処理をするだけで,
世の中の大きな流れをつくるような仕事には縁がないことが通常です。

稀に,世の中を動かすような判決を取るということもありえますが,
依頼者の利益を最優先して行動すると,こういう機会は滅多にない。

同じ法曹でも,裁判官であれば,抱えている事件数が多いので,
自然と,それなりに社会の耳目を集め社会的にも影響の大きい判断を,
自らだけの責任でする機会もありますので,官僚や大企業幹部に見劣りしません。

検察官も,ずっと検事仕事ばかりでなく,法務省の官僚になって
法案作成に携わるなりして,基本的には官僚のような仕事のようです。

と言う具合に,優秀だったはずの弁護士は,普通に仕事をしているだけでは
友人達に比べて,社会的影響力が小さいということになってしまうのです。

ところが,弁護士会というそれなりに社会的な影響力がある組織の中で
それなりの地位を占めれば,それなりに社会的に影響があることができる。
自分が正義だと考えることを,弁護士会名義で発信することも,ことの正否はともかく,
できるかもしれない。

そんなわけで,弁護士が,自らの社会における位置づけ,存在感を保つ上では,
とても大事なことのようです。

弁護士が増えすぎて,経済的に余裕がなくなり,公益活動(≒会務)ができなくなる
なんてよく言われます。
私にしてみれば,こんな主張は,世間から見れば,
「趣味的な活動に費やすだけの,経済的余裕を守れ」というようなふざけた
主張にしかみえないように思えますが,
当の弁護士から見れば,自らの人生・社会における存在意義に係る重要な問題ということです。

さて,会務に熱心な弁護士か,そうでない弁護士かは,依頼する上ではどちらが望ましいでしょうか?

会務に熱心な弁護士であれば,おかしなことをしていたときに忠告する人がいるから
懲戒にかかるような悪さをするのは,会務に不熱心な弁護士であるという話を聞き,
そんなもんかなと思いました。

でも,懲戒の情報を見ている限りだと,必ずしもそうでもないような気もします。
ただし,会務に熱心な人であれば,弁護士業界の中で悪名高い人である
可能性は低いのではないかと思います。

逆に,とてもたくさん会務をしている人(業界用語で,多重債務者にかけて,多重会務者と自嘲気味に
言われる)は,本業がほよど割がよいか,手を抜いているかという可能性もあります。
もっとも,この業界,依然として超人的な能力を持つ人もいて
たくさんの会務をこなしながら,よい仕事をしている人もいますので,一概には言えません。
どうみても超人にみえないようなら,やめたほうがよいかもしれません。

会務に熱心な弁護士かどうかは,ホームページの弁護士紹介欄に,会務の内容を誇らしげに
書いているかどうかである程度分かると思います。

 
 
 

自己責任で遊ばせてくれ

木曜日, 2月 16th, 2012
昨日だったか,NHKの朝のニュースで,スキー場のコース外を滑る人がいて,
迷惑で怪しからんという話が出ていました。

「勝手にさせてやれ」と思います。
スキーは本来,ゲレンデでするものではなく,自然の山の中で命の危険を
伴いながらするものです。

そういうことを若者がしたがるのは,人間としてごく自然な行為だし,
望ましい行為だろうと思います。

助けに行かなきゃならないので迷惑だ,とか言いますが,
勝手にしていることに本来助けに行く義務はないはずなのです。
情として助けに行ったとしても,しっかり費用を請求すればよい話です。
山岳救助と同じです。

変なところをすべると,雪崩がおきるということですが,
それは別問題です
。そういうところは別の刺激(鹿や風や気候の変化)でも雪崩れかねないでしょうし,
そういうところだけ,進入禁止を明確にすればよい話です。

ところが・・・・
実際に勝手にコース外を滑って事故が起こると訴える奴がいるんです。
訴えられるだけでスキー場としては
かなり迷惑しますから,とりあえず無難に・・ということになります。

私も若い頃は,山でスキーをしたり,バイクで未舗装路を走ったり
色々と危険を楽しみました。

でも,バイクで林道を進むと,ゲートが閉まっていることが多い。
誰も使わない林道,せめてバイクだ走ってその効用を発揮させてやろうと
思っているのに,無用の長物を助長しています。
きっと,勝手に進入して事故でも起こされたら・・・という配慮でもあるに違いない
と思いました。

近所の空き地や林のように自分が子供の頃遊べたような場所も,
最近はほとんどフェンスが立っています。

諸悪の根源は・・・そう,弁護士です。
あいつらが訴えるから,世の中がおかしくなるんだ
と思っていました。
で,弁護士になろうと思ったときも,そういう奴らから訴えられた場合に
なんとかしっかり訴えを退けられれば,なんて 考えていました。

で,現実に弁護士になると・
そう,損害賠償を請求する根拠となる法律が曖昧。
つまり過失があれば,損害賠償できるということで
過失の内容は個別の場合に一切明確にされていない。
最終的に裁判官が,「・・・・すべき注意義務があった」と
事後的に取り決めるという仕組みなのです。

そうすると,現行の法律を前提にする限り
訴えても認められる可能性が十分ある。
そうすると,野山を閉鎖したくなるのも十分理由があるし,
被害が出た場合に,訴えることにも理由がある。

そう,法律が悪いのです。
これは,立法的に解決するしかありません。
近所の空き地であれ,雪山であれ,林道であれ
好き勝手に遊びたい人のために,自然を解放した場合に
所有者や管理者の責任を免責する法律を作る
のがきっと早道なのだろうと思います。

まあ,いつも人のせいにしているようで恐縮ですが,
若者が自己責任で自然の危険の中で遊べるような世の中になってほしいものです。

やさしい教育

水曜日, 1月 25th, 2012
テレビや新聞等で、子供のしつけに体罰はいかん、とか
自称専門家の話が出ていて、よく言って聞かせて
納得を得ることが大事なんて、最近はよく見聞きします。

本人が愚かなのか、子供が愚かなのか
良く分かりませんが、しつけや道徳が理屈で説明できると
本気で信じているのか、考えているのか、
どうなんでしょう。

優しい自分に酔いしれて、何でもよくなっているだけかも知れません。

道徳なんて、理屈で突き詰めて説明なんてできません。
もちろん、理屈で説明できれば理想ですが、今のところ
そのような哲学者の試みは、完膚なきまでに打ち砕かれています。

そんなことをすると、人が嫌がるからやめましょう。
人が嫌がることをしないことがルールの基本なら、税金なんて取れません。
犯罪者を処罰することだってできません。

人に迷惑を掛けることはやめましょう。
人は生きているだけで、それ相応に他人に迷惑です。
迷惑を掛けたくなければ、消えてしまうのが一番です。

と、理屈をいえばキリがありません。
こういうのを屁理屈といいいますが、
屁理屈を言うな、という時点で
理屈による説明をあきらめているわけです。
屁理屈というのは、「理屈じゃねんだ、つべこべ言うな」
ということです。

しつけで大事なのは、
理屈じゃなく従わなければならないことがある
それに逆らうと痛い目にあう。
それが人間社会だ、ということを分かってもらうことにあります。
悔しくったって砂を噛んで耐えて、自分ができることに精進する以外に
道は開けません。

その社会の仕組みは、人間の遺伝子を操作して
別の生き物にでもしない限り変わりません。

もういい加減、怪しげな笑顔をした方による
癒し教育論はやめにしてもらいたいものです。

パターナリスティック

火曜日, 1月 17th, 2012
弁護士側,さらに裁判所を含めた法曹界のそれ以外の人に対する
発想としてパターナリズムとかパターナリスティックというものがあります。

つまり愚か者を叱りつけて,正しく導くのが我々の仕事であるということです。
ただし,愛情をもって

正直,何を言われているのか分からない人もいるかも知れません。
でも,実際のところ,
刑事弁護なんて,金をもらって叱りつけてやるのが仕事
破産手続きでも,法の趣旨と無関係に,裁判官による説教儀式のようなものが
行われていたり
通常の民事事件でも,依頼者の権利を守るために裁判官を説得するのではなく,
裁判官の意向に沿って,分からず屋の本人を説得して事件を丸めるのが弁護士の仕事と
思っている人が相当程度いて,実際司法研修所の雰囲気はそんな感じです。

私自身は,どうにもこのパターナリスティックというのが苦手で,
特にそれが強烈な刑事弁護はどうにも,ということで,早々に止めてしまったわけです。
(なお,当事務所でも,私以外の多くは,刑事弁護を多数取り扱っています)
愛情をもって叱りつけると,ロクデナシも反省して,マニンゲンになる
この超自然的な現象を信じることができるかどうかでしょう。

債務整理事件等でも,説教と家計管理による依頼者の更生こそが,
仕事の本質と考えているムキもあるようです。
でも,弁護士は家計管理や説教の専門家ではありませんから,
弁護士や司法書士にだけ,債務整理が許されている理由にはなりません。
倒産諸法の趣旨を考えた上で,債権者間の公平をしっかり図りながら,
債務整理をする,この公平感の感覚こそが,弁護士が訓練を受けている部分です。
ですから,弁護士がする債務整理で大事なのは,依頼者の利益と,
債権者間の公平と言ったことのバランスをしっかり取るということだと私は思います。

まあ,ここら辺は,生まれ育ちにからむ部分かも知れません。
私は,優等生だったことがなく,普通又は駄目人間の群れの中で生きてきましたので
説教マシーンの類は聞いているふりしても,実際は全く相手にしていない
という感触があります。

でもこの業界,当たり前ですが,優等生育ちがたくさんいますので,
そうすると,叱りつけて更生させるのが本人のため,という発想になるのか,
もっと深遠なる思想に基づくのか,優等生でなかった私には分かりません。

当事務所には,私のような非優等生育ちや,スーパー優等生育ち等
色々いますので,事案に応じて適切にやっていこうと思います。

 
 

弁護士の就職難

金曜日, 12月 16th, 2011
本日の朝日新聞の記事で,司法修習を終了したけど,就職できない人が400人ほど出たとのことです。
実感として,弁護士仕事がそれほどあるわけではないので,当然のことだろうと思います。
仮に,どんどん就職できたら,それだけ弁護士が増えて,その弁護士を社会が養うことになります。
つまり,今まで弁護士にお金を払わずに済んでいた人が,お金を払うことになる社会になる。・
弁護士が今の暮らしをより快適にするような提案ができるのであれば,それでもよいのですがが,
それができないと,ロクででもない社会になりそうです。

そういう面では,過剰に弁護士が増えないように,社会的に自制が働いたのでしょう。
弁護士業界は,合格者を1500人にしろ,とか色々目標を立てて,計画経済のごとく
考えていますが
きっちり,市場原理が働いて,合格者が1500人とほぼ同じ結果になったわけです。

司法試験の合格段階で絞るか,就職段階で絞るかは
修習生がかわいそうか,国家が無駄な支出をすることになるか,一概には言えないでしょう。

ただ,司法試験の合格水準さえ下げなければ,多額の投資をしても仕事がない業界に
流入してくる人は激減し,合格水準の能力を身につけられる人も激減すると思うので
自然と,適正な人数になるでしょう。
市場にまかせればよいということです。
弁護士業界は,ただ「合格水準を下げるな」と言っていればよいのです。

さて,記事の中に毎月の弁護士会費の負担があるから登録できないということも書いてあります。
私の所属する横浜だと,毎月3万から4万ほど払っています。
弁護士がとても少なくて,独占的利益を享受しているとすると,どこかの過剰利益から払えばよいのですが
上記のように,弁護士の供給市場は飽和していますので,過剰利益はありません。
当然,弁護士費用に価格転嫁されます。

個人の事件をする弁護士(業界用語で一般民事)だと,月に3,4件の事件の依頼を受ける のが
平均的かなと思います。そうすると,各事件ごとに1万ほどの価格転嫁が行われます。
それだけの価格転嫁を正当化するだけの,○○活動とやらなのかは・・・・どうなんでしょう。

さらに,ロースクール制度による価格転換もあります。つまり,設備投資の費用の回収です。
現在,ロースクールに行く学生の大半は,世間的な一流企業に就職できる層です。
その人たちが,3,4年無給でいることの,本人のロスは,1000万円以上でしょう。
本来,ロースクール制度が想定していた,多様な社会経験を有する人だと,もう少しよい
給料を捨てて3,4年は無給ですごすわけですから2000万円程度のロスになると思います。
ロースクールの学費も数百万はかかるのでしょう。

仮に2000万のロスを10年間で取り返そうと思うと,年間200万,月間16万となり,
月に3,4件の事件依頼とすると,1件5万円程度は上乗せしないと,あいません。
さらに,就職できないリスク,つまり多額の設備投資がすべて無駄になるリスクを考えると
もっと価格転嫁できないと,弁護士業界にすすむ合理性が無くなります。

つまり,現行の弁護士会費制度やロースクール制度によって,相当程度の弁護士費用への
価格転嫁が行われることは,理屈の上では予測されます。

当事務所は,個人の事件の分野において,
依頼者の側は「弁護士費用高すぎる」
弁護士の側は「この費用で,この重い件を引き受けるのはきつい」
という不幸な状況を何とかできるのは
依頼者の側ではなく弁護士側しかないと考えています。

まあ,そう簡単には何とかできる問題ではなく,
事務所全体で問題意識を持ちながら,10年くらいかけて,
少しずつ工夫を積み重ね
個人分野の仕事の仕方を抜本的に変えていければと思っています。

でも制度的に,上記のコストがかかるというのは,
(つまり,上記だけ価格転嫁して,それを給料に反映できなければ,
優秀な人は当事務所で働く経済的な合理性はないと言うこと
そして,ほとんどの法律事務所がそのような給料を支払えなければ,
まともな人間は弁護士業界に来なくなると言うこと)
大きな数字ではあります。