Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

タレブ流野球論

日曜日, 3月 27th, 2016
以前から作ってみたかったシミュレーターをエクセルで作ってみました。

3分の1の確率でヒットを打つ好打者の打率は.333です。
でも,安定的に3回に1回ヒットを打つわけではなく,試合ごとに3打数3安打だったり,4打数無安打だったりします。4打数無安打だったりすると,今日は調子が悪かったとかいいますし,2試合続けてそういう状況だと不振の兆候とみられたりします。

でも,完全に偶然なサイコロだって,その程度のむらはあります。1から6の目が均一にでるのではなく,3ばかり続くこともあります。サイコロの調子がよかったり悪かったりするわけではなく,偶然のムラというのはそういうものです。

ということで,サイコロで1か2の目が出たらヒット,4から6の目がでたらアウトとして,大数の法則が働く程の超大量打席だと打率.333に収まる打者を想定します。そして,シーズン500打数程度にしたときに,ほぼ.333におさまるのか,かなりムラがでるのかは,サイコロをふって調べていけばわかります。

でも,サイコロ振ってメモをとるのも面倒なので,こういうことをシュミレートできる(当然,打率は.333以外も設定できる)簡単なプログラムを作ってみました。

シュミレート1
理論打率.300のバッターに500打数で10シーズンとりくんでもらうと
.250~.260 1シーズン
.260~.270 1シーズン
.280~.290 1シーズン
.300~.310 2シーズン
.300~.320 3シーズン
.330~.340  1シーズン
.350~.360  1シーズン
となりました(なお,もう一度プログラムを走らせると結果は変わります)。よい感じにムラができています。
つまり,500打席程度だと,完全に偶然のムラでも上記程度のばらつきが出るということです。
3割5分打ったバッターが翌年2割6分になれば,調子を落としただ,研究されて通用されなくなった,怪我の影響だとか色々と評論家もファンもいいますが,完全に偶然のムラでもこの程度の差はでるということです(ですから,ヤクルトの雄平の一昨年と昨年の成績の差も,ただの偶然の可能性が十分あります)。

仮にシーズンが1万打数あるとすると
シュミレート2
.290~.300 7シーズン
.300~.310 3シーズン
となり,理論上の打率3割周辺にまとまります。大数の法則により偶然のムラが大数の法則にしたがってなくなるということです。1万打席ある状況で打率3割5分から2割6分に落ちたら,偶然の影響ではなくてやはり調子を落としたなりなんなりの理由があるということです。

では昨年の首位打者,ヤクルトの川端が開幕から1ヶ月間,打率1割台に苦しんだとしたら偶然でしょうか,理由がありそうでしょうか?
理論打率.310の打者が80打数打つという想定で100回シュミレートすると
打率1割代になるのは2回だけでした。そうなると偶然というよりは,何か理由があるとみたほうがよいかもしれません。ただ,100回というのは,15シーズン分つまり現役生活分程度の数字ですが,現役生活中に2回くらいは偶然だけが理由でその程度の不振に苦しんでもおかしくないことになります。

では,打率4割の達成は本当に難しいのでしょうか?
通算打率でみるとトップでも.320です。でも通算打率は晩年の能力低下で多少下がりますので,ここで思い切って理論打率.330の打者に登場してもらいます。
毎シーズン500打数として1000シーズンがんばってもらいましたが,最高でも3割9分代が1回あるだけで,4割には一度も届きませんでした。やはり4割はかなり難しいようです。

というわけで,野球は数字が色々でて,それに基づいて色々と理屈を述べるのが楽しいですが,そのような理屈はデタラメのことも多くありそうです。打率が低いバッターを我慢して使っていると「監督に気に入られているから」なんて考えたくもなります。でも「打撃練習でふれているから」なんていう現場感覚に基づいた起用というのも合理性があるのかもしれません。

裁判の一般化

火曜日, 2月 9th, 2016
認知症の介護者の責任について最高裁判所が判断しそうです。

責任を限定する常識的な判断が望まれます。

以前にも子供のボール遊びを原因とする事故についての親の責任について,下級審による無限定な責任を認める判断が相次いでいた中,最高裁判所は限定する判断をしています。

なぜ,地方裁判所や高等裁判所は,このような「いったいどうしろというんだ」という事案について親や介護者の責任を平気で認めてしまうのでしょうか?

裁判をしていて不思議に思うのは,裁判官の中には「この判断が一般化したら,社会はどのようなことになるのか」という意識がほとんどないということです。
裁判をするというのは,あくまで個別の事案についての妥当な判断をすることであるという意識が強く,裁判の判断内容が法律のように一般化して他の事案にも影響するという意識は希薄です。

実際のところ,最高裁判所の判断以外の,下級審の判断にはいわゆる「判例」とでもいうような先例的価値を認めないのが日本の平均的な裁判官だと思います。ですので,自分の判決も先例として他の事案に一般化されるようなものではない,と考えるのかも知れません。

また,いわゆる法律の勉強においても,司法研修所の勉強においても,自分の判断が一般化したらどのようなことになるか考えろ,というような指導があった記憶はありません。

ということで,子供が遊んでいることによって生じた事故について親の責任を大幅に認めたり,認知症老人が起こした事故について介護者の責任を広く認めたりすると,社会の人々がどれだけ困ることになるのか,なんてことは裁判官はサラサラ考えていないというのが正解なんだろうと思います。この事案では,この人に責任を認めるのが妥当だ。他の事案では,また妥当な結論は異なってもおかしくない,というふうに考えているということです。

ところが最高裁になると,職業裁判官ばかりではなく,行政の出身者等もいて,特定の法規範(法律なり判例なり)を定めた場合の社会的な影響について考える訓練を受けている人もいるし,また最高裁の判断ばかりは下級審の裁判官も極めて尊重しますので,その判断が一般化した場合の社会的影響について考えた上での判断がなされるのだろうと思います。

とはいえ,下級審の裁判所も,もう少しその判断が一般化したらどうなるか,という視点をもってもよいのではないかと思います。

夫婦別姓問題と最高裁

木曜日, 12月 10th, 2015
12月16日に最高裁判所が夫婦別姓を定めた民法の規定の合憲性について判断するようです。

夫婦別姓についての賛否はさておき,この問題について最高裁が違憲と判断することについては,かなり違和感があります。

日本は民主主義国家です。ですから,国民代表が構成する国会だけが法律を制定するのが大原則です。

ただ,民主主義がうまく機能しない場合,つまり多数決によって少数者の人権が侵害されているような場合や,投票価値の平等のように国会そのもの正当性が問われるような例外的な場合に,裁判所が違憲と判断して少数者を救って民主主義を補うということです。
裁判官は選挙を経ていないワケですから,民主主義が機能しない例外的な場合にだけ権限を行使するようにしないと,そもそも民主主義国家とはいえなくなってしまいます。

夫婦別姓の問題は,少数者の人権の問題ではありません。夫婦同姓の強制によって,女性側が事実上不利益を被っているという社会的現実があるとしても,女性は社会における多数派です。納得いかなければ民主主義の課程の中で是正すべき問題です。代表制民主主義とか,政党政治とかそういった枠組みの中で,すすみそうで進まない問題について,裁判所を利用して決めてしまえ,なんてことになったら民主主義国家の立法体制とはいえなくなります。

仮に,今回最高裁判所が違憲判決をだそうものなら,国会で多数をとれない勢力が,自分たちの政策に反する法律の当否をどんどん裁判所に持ち込み,最高裁の裁判官のうち8人を納得させることができれば政策を実現できるなんてことにもなりかねません。

今回の件にについては,最高裁判所には謙抑的な判断がのぞまれます。

人工知能とモラル

木曜日, 11月 26th, 2015
自動運転をはじめ人工知能がいよいよ人間社会に出てくる可能性があります。
その場合,人工知能にどのような道徳をプログラムするのか,最近読んだ本にそのような問題意識が書いてありました。

この問題は,私が大学の卒業論文を書いた際の大きな問題意識のひとつなので感慨深いです。
私が卒業論文のテーマとして考えたのは,道徳を整合的に組み立てるための基本条件のようなものです。

人はものごとをよいとか悪いとか,すべきとかすべきでないとか,色々道徳的な話をします。
その場合,よい理由を述べたり,「それは矛盾している」と言ってみたりしますので,道徳に論理が介在していることは間違いないのですが,実際に論理的に整理していくとかなり支離滅裂です。
これを支離滅裂でなく,整合的,一義的に善悪等を把握するためには,どうすればよいのか,というのが問題意識です。

これは,古くからある問題なのですが,一般に哲学史の中では決疑論と呼ばれていて軽視されている分野です。
それでも,自立的に動くアンドロイドのようなものに,行動の判断基準をプログラムするとなると一義的に明瞭な善悪の判断基準が必要となるのではないか,なんて考えて追究してみようと思ったわけでした。

もちろん追究の結果,善悪を一義的に把握的出るようになったわけではなく,そのようなことを学問として研究するための形而上学的な基礎を考えるというものです。

形而上学というと,いかにもグロテスクな感じがするもので,多くの哲学者は形而上学がいかに無意味かということを論じながら過去の哲学者を批判しています。
でも,その結果として,自分自身の形而上学を組み立てていくわけです。

道徳を整合的に理解する上でも,おそらくは形而上学的な問題にケリをつける必要があります。
たとえば責任という概念は,ある人の行動がある結果を招いたという因果の法則と,その人は自分の意思で判断したという自由意思の双方を内包しています。ところが,双方は矛盾した概念です(いわゆる決定論と自由意思の問題)。そこを整合的にどう処理するかを決めない限りは,整合的な判断は不可能です。法律学では,責任についてなんたら責任説といった色々な学説がありますが,結局のところ形而上学レベルの矛盾がそのままバラバラな意見に結びついているわけです。おそらく責任というのは形而上学レベルで矛盾した概念であって,そういう矛盾した概念を利用して道徳を考える限りは整合的に道徳を考えることは不可能となります。
形而上学レベルでケリをつけていくといのは,そういう部分を処理していくということです。

結論としては,
①道徳の問題を自分の現在の意識決定の問題に絞り込む,つまり過去の出来事や他人の行為を道徳判断の対象からはずすことで,決定論と自由意思のような矛盾は回避できる。
②一義的に道徳を決めるという条件をみたす道徳理論は,功利主義といわれる道徳理論,つまり幸福計算や快楽計算によって善悪を把握する理論に絞り込まれる。一般的に指摘される功利主義の欠陥の多くは,立場の交換可能性を係数として付け加えて計算することで回避できる。
③道徳判断の枠組みと自然科学的に想定される世界との関係は,自然科学的な世界に一次元追加する枠組みを考えることになる。空間の3次元に時間を加えて4次元が自然科学的な世界とした場合,道徳的な望ましさの値として5次元目を考えることになる。現在aの選択をした場合の将来の世界Aと,bの選択をした場合の世界Bは,同じ時間にあらわれる異なった世界ということになるので,もう一次元を考えることになる。その複数の選択肢について,どのように道徳的な値を与えていくのか(功利主義であればそれぞれの世界の快楽計算をすることになる)が,道徳を整合的に理解するということになる。

というようなことだったと思います。
中身のないカラですね。このカラのことを考えてみたということです。

ふと昔のことを思い出して書いてみましたが,なんだか文章がわかりにくいですね。
哲学者になるのをやめて,とりあえず何をしようかなあと色々な業種に就職活動をしていたときに,NHKのセミナー(実際は就職試験)で文章を書く試験がありました。
返ってきた結果は不合格で,コメントは「極めて論理的で難解な文章です。一般の方むけのマスコミの文章として不適切です」なんて書かれたことも思い出しました。

自動運転その2

金曜日, 11月 6th, 2015
やはり自動運転の実現に向けて法整備等、色々と動き出してきました。

経済的な観点からすると、日本が先陣を切ったことはとても大きいと思います。
先陣を切ることで、思わぬ事故等のリスクもまっさきに受けることになるとは思います。ただ、自動運転がおそかれ早かれ実現するのであれば先陣をきったほうがメリットが大きいこと、日本の経済的繁栄が自動車産業に依存していてその面からも自動運転先進国になるメリットは大きいこと、からすると積極的に推進すべきなのでしょう。

法整備もすすめる等と記事もでています。賠償責任の問題も記事にはあったりしますが、自賠法がある現状からすると自動運転が失敗して事故が起きた場合も所有者が責任を持つということでおおむね済むと思います。だからしっかり任意保険に入りましょうということです。でも、細かな問題があるのかもしれません。

法整備で、しっかりやってほしいのは、法定速度の問題です。大半の運転者が支持していない現状の法定速度規制はこれを機会に見直すべきでしょう。万が一にも、たくさんの自動運転車が高速道路を時速100㎞(ちょっと風がふけば時速60㎞)で走り出した日には、渋滞がすごいことになりそうです。高速道路の法定速度は時速120㎞あたりにして、それを超えた場合は厳密に取り締まるという本来あるべき姿に変える必要があると思います。

この問題は、法定速度の問題に限らない将来的に大きな問題をはらんでいます。
自動運転車というのは、人間界で自律的に生活をはじめる人工知能の先陣をきる存在といえます。
人間が従うのと同じルールに人工知能も従いながら、人間と人工知能が社会で共存するということは、将来的に想定される状況ですが、まずは人間が運転する車と自動運転車という形でそれがはじまるのです。

人工知能が人間社会でルールにしたがって生活する場合、ルールは明確で一義的である必要があります。周りの人の顔色をみたり、誰かさんにあとでおこられそうかどうかとかに応じて臨機応変にというわけには、なかなかいかないと思います。やってよいことと、やってはいけないことについては、できるだけ明確にしておくということが肝心なのです。

となると、高速道路では法定速度+20㎞まではうすいグレーで、+40㎞までは濃いグレーで、法定速度内は法律上はホワイトだけど安全かどうかという基準でいうとかえって危険かも。だから覆面パトカーがいるとか、まわりの車の流れをみながら、あうんで速度を決めていくなんていう状況は好ましくないわけです。

というわけで、自動運転に先陣をきるだけでなく、明確なルールという点では後進国といえる状況は早急になおして、きたるべき人工知能との共存社会にむけた社会整備についても先陣をきってもらいたいものです。

たわけたことか

火曜日, 10月 13th, 2015
たわけた、というのは田を分けるような馬鹿げたマネ 等と説明されることもあります。
その語源が正しいかはさておき、仕事のモトデはいたずらに分けない方がよいというのは説得力があります。

さて、今の日本の法体系上、たいていの財産は最終的に生きている個人(法律上、自然人とも言う)に帰属しています。
国や自治体の財産や、一部特殊法人の財産は違うかもしれませんが、会社という法人の財産も株主たる誰か個人の財産という形になります。株主が法人であればその法人の株主ということで、最終的には個人に行き着くことが想定されます。

ということで、個人で事業をしている場合であれば当然、その事業用の財産は何らかの事業用の財産としての区別されるわけではなく個人の財産にすぎませんし、法人化して事業をしていたとしてもその法人の株式は個人の財産ということになります。

人も雇わず小さく事業をしているのであれば、大きな不都合はありません。
でも、ある程度の規模で事業を行っていれば、会社の財産、設備もそうだし、運転資金として必要とされる預貯金も、あくまで事業存続のためのモトデという性格を持ちます。
これをワケてしまい事業外に流出させれば事業の存続が危ぶまれ、その事業を生活の基盤としているほかの従業員の生活も脅かされます。

ところがあくまで法律上は個人の財産に過ぎないわけなので、事業主や株主兼社長の個人のゴタゴタに巻き込まれてしまうことになります。
つまり、社長が離婚になれば、奥さんは会社財産相当の半分を要求することは多いですし、相続になればその相続税の支払だったり、事業を承継しない相続人が均等相続を要求してきます。その要求に応じた場合、会社のモトデは失われ、会社が危うくなりかねません。

株式が上場していればそんな問題はないのですが、社長=株主という中小企業であれば、そのような法制度からくる個人紛争の荒波をもろにかぶることになります。

戦前の民法は家督という仕組みがありました。相続も家督を継ぐことになりますし、離婚に際して家督の半分を要求なんてできませんから、上記のような不都合は生じません。家という事業体の存続をはかる上では合理性があるといえます。

現代社会は企業社会であり、企業は社会の大半の人にとって収入の源であり、大半の時間を過ごす場所であり、少なからぬ人にとって自己実現の場としての意味を持っています。現代社会を多くの人にとって快適にするためには、企業という職場を安定させることは必要な要請です。そして、多くの雇用は中小企業が生み出しています。そうなると、企業体の存続が個人の離婚や相続によってゴタゴタするというのは、合理性があるとは思えません。

個人事業の場合であれ、社長=株主の個人企業であれ、家督のように、タワケたことが起こらないような法制度があってもよいのではないかと思います。

速読

金曜日, 9月 4th, 2015
速読という技術があります。
はたして,1分間で本1冊とか,そういうことが可能なのかはよく分かりません。
私はできませんし,出来る人をみたこともありません。

でも,できたらすごいなあ,ということは昔から思っていて,
中学生の頃から何度か,それができるという本を買ってきて訓練に挑戦したことがあります。
でも,たいてい集中力を高める訓練というあたりで挫折して,そのままです。
その後も,本を読んでいる際に,ふと速読を挑戦してみますが,結局身につかないままです。

ただ,東京大学だったり,司法研修所だったりと,人間の中でも事務処理能力が高い人が集まっている世界,その世界に入るためには速読能力があればかなり有利と思われる世界で,速読を身につけている人に全く出会わなかったということは,やはり,トンデモ本の類なのかなあ,と思います。

それでも,1分間に1冊というレベルではないにしろ,普通の速度よりははるかに速い速度で,ただし理解の程度は普通よりも劣る程度で,という技術は,ビジネス書を読んでいると存在しているのかも,という気がします。

さて,世の中コンピュータ・人工知能・ロボットの発達がどんどん進みそうです。いくつもの仕事がなくなると言われています。
弁護士の仕事自体はなくならない可能性が高い,とはいえ,個々の弁護士の仕事の中身のうちいくつかは,コンピュータに任せた方が合理的ということになりそうです。

弁護士の事務処理的な仕事のうちで大きな部分をしめるのが文書の作成作業です。文章にこだわりのある弁護士も多いですし,依頼者も自分の言い分をまとまった書面に作成する部分で弁護士に期待するところが大きいようです。
ただ,この部分はかなりコンピューターにとって代わられるのではないかと思います。乱雑な文章をまとめて読みやすくする技術等は,自動翻訳等の技術と重なる部分が多いと思いますが,このあたりはアメリカ等のITの天才達が興味とエネルギーを注いでいるものと思われます。音声認識の技術も一昔前とは違いかなり制度が高いので,打ち合わせ内容を録音しておけば,あとは書面が自動で作成されるという状況は容易に想像できます。パソコンの日本語入力システムや,プログラムのヘルプの要領悪さの現状からすると,結局駄目かも知れませんが,20年程度の間に実現する可能性は半分程度あるのではないかと思います。

逆に,文章化された内容を把握するという部分のコンピュータ化はなかなか難しいと思います。頭に微弱電流でも流して,文章の内容を記憶させるなんてこともいずれは可能になるかも知れませんが,文章自動化にくらべるとSF感はだいぶ強い気がします。
簡単に文章を作れるようになると,読まなければならない文章は増えると思います。現状でも,パソコン普及前に比べると,依頼者が書いてくれる文章,相手方弁護士が書いてくる文章いずれもかなり長大化している気がします。これがさらにすごいことになる可能性があります。

となると,今後のIT化をみすえて,身につけるべき能力として,何らかの速読能力が重要なのではないかという気がしてきます。

二俣川が変る

木曜日, 8月 13th, 2015
二俣川がどんどん壊れていっています。
新しくするために壊しているのですが,南口はかなり,あとかたもなくなっています。
これだけ大がかりだと,新たな構築物が完成した折に,元の状況を思い出すのも難しいかもしれません。

今の北口には,ドンキーホーテの大きな建物があります(当事務所開業の頃は長崎屋でした)。
私は,高校の頃,ずっと二俣川を通って(電車だったりバイクだったり)通学していました。
その頃は,ドンキホーテの建物はありませんでした。
でも,そこが何だったのか,どうにも思い出すことができません。
たぶん,ドンキホーテの建物の中にはいっている個別の店が商店街としてあったことは推測されるのですが,思い出せません。

そのようになりそうです。

真田もの

水曜日, 8月 12th, 2015
今年の大河ドラマは,なかなか難しいですね。
出ている人とか脚本がというより,吉田松陰の妹を主人公にするということを決めた時点,もっといえば主人公を男女交互にするという根からの問題でしょう。

そこで来年が楽しみになります。真田の物語は,日本史のなかでも屈指のストーリーですから,今年の大河と違い,これでつまらなければ脚本なり役者の問題といえます。

真田物が面白いためには,家康,真田昌幸,淀君が存在感を発揮する必要があると思います。
家康がすごくなくては,家康を追い詰めた物語に芯がとおりません。
真田昌幸がすごくないと,世間がみた真田の存在感,幸村(信繁)と父子という中心テーマが抜けます。
淀君がすごくないと,絶望感がでないでしょう。

そんななか,昌幸は,以前の真田太平記で幸村を演じた草刈氏とのことですが,これはどうなるでしょうか。
以前の真田太平記での,幸村はよくありませんでした。
大河ドラマでありがちなのですが,悲劇のヒーローを悲劇じみた辛気くさい雰囲気で演じられると悲劇になりません。
明るいヒーローが死んでしまったからこそ,周囲が悲しくなり悲劇になるのです。
昌幸を演じるイメージもいまひとつ持てませんが,もしかしたら,こずるい昌幸という路線ならはまるかもしれません。

家康はどうなるか分かりませんが,本多正信の近藤正臣氏はかなり期待しています。

淀君はまだ発表されていないようですが,迫力ある淀君を期待したいと思います。

逆風慣れ

火曜日, 5月 19th, 2015
法科大学院の入学者が過去最低とのことです。
今回の司法改革を成功というのはなかなか難しいし,これ以上の失敗した制度改革を探すのも難しいだろうと思います。でも,どんな制度でも壊滅的な破壊が,自然界における撹乱(山火事等)と同様に,長期的に見ると有用なのだろうとも思うので,それはそれで長期的な視野も必要なのかも知れません。

いずれにしろ,弁護士業界は,私が弁護士を目指した頃の「とりあえず弁護士資格をとっておけば安泰」というものでは全くなくなっています。社会にとって司法改革が成功かどうかは別として,少なくとも個人の目論みとしては完全に計算がはずれました。

でも実を言うと,この手のことは,私にとって3度目の出来事です。

私は大学生の頃は,哲学者になろうと思っていました。ところが,その矢先に,大学の制度改革のようなものがあって,教養課程の大幅な縮小が行われたようです。そして,それまでは,各大学とも教養課程のために哲学の先生が必要だったのですが,要らなくなってしまい,失職しているようだなんて状況になりました。そしてただでさえ少なくなった職を,失職した人と博士課程を出た人でとりあうような状況になっているとの話でした。なので,博士をでても仕事はないよ,となってしまったのです。
実はもともと哲学者なんていう職はなくって,基本的には哲学文献研究者になるしかない世界です。逆風の業界状況の中で,自分は哲学文献研究者でなく哲学者だなんて言っていても,生活費を稼げるあてはほとんどなく,別の道を考えることにしました。

そこで就職です。もともと哲学者になるなんて大風呂敷を広げた後の進路ですから,なかなかポジティブな動機付けもみつからないまま,あまりハードに働くのも嫌だし,でも給料もそれなりに欲しいなんてみつけたのが信託銀行です。ところが,信託銀行も金融ビッグバンだなんだで,それまでの存続の基盤であった規制が撤廃された上に,入社直後にはさらに多量の不良債権が隠されていたことが判明したりで,もうどうにもなりません。逆風に立ち向かって何とかしてくれようぞ,なんて新入社員が考えるような場ではないですし,根本的にサラリーマンになじめない性格的欠陥の諸々も気づかされて,撤収です。

そんな次第でしたので,司法試験に合格した後の司法修習中に,司法制度改革によって弁護士を大幅増員するという話をきいたときは,「またかよ」という気分でした。でも,さすがにもう逃げていてもしょうがないなあ,とハラをくくることが出来たのではないかと思います。

撹乱後の業界が,撹乱前よりも大幅によくなる上で,当事務所が重要な役割を果たしていくことができれば,と思っています。