Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

春山

木曜日, 4月 13th, 2017
少し前のことですが,雪山訓練をしていた高校生が雪崩の犠牲になりました。
犠牲になった方は気の毒ですが,こういう行事がなくならないことを祈って,昔のことを書きます。

実は,私も高校2年から高校3年にあがる春休みに,県が主催していると思われる春山講習会(つまり雪山での行動訓練。場所は八ヶ岳)に参加しました。
山岳部というのは特殊で,基本的に他校との交流はありません。
そういう中で,唯一,他校の生徒も参加する行事がこの春山講習会でした。
他校が参加するからといって交流を深めたりするわけではないのですが,やはり他校の連中が我々に比べてどうなのか,というのは気になるところなので,強い興味がわく行事です。

さらに,雪山では,アイゼンやピッケル,その他ヤッケとかオーバミトン,スパッツ等の衣類といった特殊道具を使えます。
こういうものを使ってみたいという興味はありますが,自分の学校単独で雪山に行くということはないので,特殊道具を使ってみることができる貴重な機会が春山講習会でした。

実際,何をしたか詳細な記憶はないのですが,横岳(南八ヶ岳のほうの横岳)の山頂で穴を掘って風を防いだこと(これは教わったのではなく,勝手にやってみた),下り坂でグリセードといって靴をスキーのようにすべらせて滑り降りたこと,滑落停止訓練というのをうまくできないと,どこぞの熱心な先生に「死んだー」と叫ばれていた(つまりそのようなやり方では現実の環境では滑落を止めることはできないことの強い表現)こと等はいまも覚えています。

ところが,この手の行事に参加するというのは顧問の先生方にとっては面倒で負担です。
我々の期は,人望ある部長がいたおかげで,顧問が面倒な行事にも色々つきあってくれたのですが,上の代のとき(つまり私が高校1年から2年にあがる春休み)は春山講習会には参加できませんでした。

その代わりに上級生により決行されたのが丹沢登山です。丹沢は我々にとってホームグラウンドのようなところで,大したことはないはずでした。雪山道具を少しでも使えたらという希望もあったようで,特殊用具ももって行きました。この登山は,よく事情は覚えていませんが,顧問はおらず生徒のみで行われました。

ところが,2日目の朝,目が覚めたら,一面銀世界の雪山が待っていました。上の代はともかく,我々は特殊道具の使い方等知りません。
何度となく,滑落(つまり雪のなかで制御不能になって相当距離滑ってしまうこと)がありましたが,上級生の山行継続の意思は強く2日目の幕営(檜洞丸の山頂)が行われます。

翌朝,さらに状況が悪化します。夜間にさらに雪が降り続き,翌朝には十分な雪がまんべんなく積もって道が全くわからなくなります。勝手知ったる東丹沢であれば,カンで進めたかもしれませんが,あまり来たことがない西丹沢ではどうにもなりません。
どうにもならないまま停滞(行動できずにテントで様子見)します。我々のテント(我々の代3名が止まるテントで上級生はいない)は入り口のチャックが壊れていて,風や雪がそれなりに入ってきます。しかも,誰かが気を聞かせて(つまり,どうせすぐ帰ってくるだろうという見通しのもと),本来の指示された量よりも大幅に少ない灯油しか持ってきていませんでした。その結果,寒さを凌ぐために,夜間照明用のろうそくの火をで暖をとりながらシャウトを繰り返す状況でした。
そんな中,別のパーティがあらわれ,下山道に踏み跡をつけていってくれます。雪は降り続いていますので,すぐに行動しないと踏み跡は消えてしまいます。ようやく上級生の英断がなされ,踏み跡と辿って下山がはじまります。途中,踏み跡が消えかけて間違えた方に降りてしまって登り直したり等ありましたが,全員無事で戻ってくることができました。

今となってはよい思い出ですが,遭難すれすれだった気がします。
この出来事のきっかけは,上級生が春山講習会に参加できなかった悔しさだったと思っています。

そんなわけで,やはり春山講習会のような行事は継続したほうが,よいのではないかという気がしています。

本能のままに

火曜日, 1月 31st, 2017
法曹時報という法曹向け(法曹向けの本の中でも最も固めで,一般法曹向けというより勉強熱心な一部の法曹向け)の雑誌があります。

最近68巻11号で,認知症高齢者の電車事故について,家族の賠償責任を否定した最高裁判所の判決についての論考が記載されていました。

上記最高裁に違和感を感じる法曹の根っこには,「被害者は必ず救済されるべし」「被害があるからには誰かが責任を負うべきである」という正義感がある。
筆者が学んだアメリカではこういう発想はなく,原則として被害は被害者が負担するもので例外的にのみ加害者に請求できるという公平感がある。
今後,高齢化社会が進展するにあたって,日本の法曹の正義感は不合理なことになるので,修正するのが相当

といったような内容です。

私自身も,この種の正義感には違和感を感じていたのですが,アメリカから輸入された正義感だとばかり思っていたので,びっくりでした。

嫌なことがあれば,それが事故であれ,病気であれ,不愉快であれ,誰か悪いヤツを探し出して賠償させるというようなことに日本の不法行為法は使われています。そして,賠償範囲の拡大はとどまるところを知りません。
法律が適当で,悪いことをしたやつに賠償させることができる,という程度のことしか書いていないので,悪いことがどんどんひろがっていってしまって,最高裁が必死にとどめているというのが現状です。
弁護士としては,勝てる可能性がある以上,依頼者が求めてきたら賠償請求せざるを得ない(もちろん,当事務所もそうします)ので,この状況を変えるには,適当すぎる法律の条文をも少し具体的なものに変えるしか無いのではないかと思います。

まあ,不愉快な気持ちが生じたら,その原因を探し出し(原因が見つかるまでは落ち着かない。間違ったものにしろ原因を決めれば落ち着く),攻撃可能であれば攻撃を開始するというのは,脳の本能というようなものです。日本の正義感は本能に即したものといえるでしょう。それに油をそそぐか,冷静な判断をするような枠組みをつくるか,そういう問題なのだと思います。

すごい実行力

日曜日, 1月 29th, 2017
アメリカでトランプ大統領が就任したとたんに、公約の実行を推し進めています。

トランプ大統領に否定的だった人は、公約は選挙向けのものであり、大統領に就任した場合は「常識的」な政策をとると期待していたのかもしれませんが、まったくの期待外れのようです。

公約違反とか、違反しなくても政策の実現には時間がかかるのが当たり前の感覚だった中で、このトランプ大統領の行動はすごいと言わざるを得ません。
これが、職業政治家ではなく、ビジネスマンであるということかもしれません。あれこれ考えたところで、正しい方法等わかるはずもない。とりあえず実行してみて、間違っていたら修正すればよい。ということなのでしょうか。政策の中で、当然うまくいかないこともあると思いますが、その場合にどう対応するのか、仮に君子豹変ができるとすれば、名大統領の目がでてきます。

正直、トランプ大統領の政策はおっかなさがあり、肯定的なことを書いてあとで後悔するのではないかという気持ちも常にあります。ただ、政策のようなものの是非は、根本的には人間には判断のしようなどなく、それがわかっていながら、脳の活動のサガとして、まったく意味がないのに色々と理屈をつけて考えてしまうようなものだと思います。

もっと単純な問題で、株の売買を考えても、得をしたか損をしたかなんて根本的にわかりようがありません。
ある株を買って、売るときに値上がりしていたら得、値下がりをしていたら損というのが第一の結論です。
でも、得をしたと思っても、翌日にさらに値上がりしていたら、昨日売るより今日売るほうが得だったということになります。
判断基準が、買った時を基準にするか、売った時を基準にするかという問題です。
買ったときの基準にしても、得をするならもっと多く買っておくということもできたのですから、その程度しか買わなかった判断により損をしたといえます。
また、買った株よりももっと値上がりした株があったのであれば、そちらを買ったほうがよかったことにもなります。

結局のところ、第一の結論は、ある一定の時点で一定の金額を普通預金にいれておくか特定の株を買うかの二者択一の選択肢しかなく、かつ特定の日にその株を全額売るという極端に限定された仮定を置いた場合の損得判断なのであって、無数の選択肢がある現実の状況ではほとんど意味がない判断だといえます。

仮に、あるときに全財産を原資に買った株がその後ほかの株に比べて圧倒的に値上がりし、それをすべて売却した日を境に暴落したとしたら、得をしたと言わざるを得ないでしょうか?その場合だって、借金をしてもっと買えばもっと儲かったわけです。その他さらに、極端に考えていけば、どうみても得という場合はあるかもしれませんが、非現実的な話になるでしょう。

何人の運用の巧拙を判断する場合も同様で、一定の日に同時に運用を始めて、一定の日の残高で勝負を決めるというようなゲーム的なルールであれば、そのゲームでの勝敗判断はできると思います。が、能力の差を統計的に優位な程度に判断するには、かなりの回数のゲームが必要でしょうし、本当に統計学的前提が適用できるのかどうかすら怪しいものです。

というところで、少なくとも一定時点間、限定条件下での損得が比較的わかりやすい株の売買ですら、その損得、巧拙が人間にはわかりようがないことは明らかです。ましてや、さらに複雑で、同時に比較することもできず、評価にあたって何の指標を用いるべきかを判断することもできず、偶然的な外部的要因の影響も大きいような政治家が行う政策について、人間が、事前にはもちろん事後的にすら判断できようもないことは明らかです。

たとえばメキシコとの国境に壁を作る政策と作らない政策。壁を作った場合は、作らなかった場合は想像するしかない。経済成長率なのか失業率なのかいったい何の指標で成否を判断するのか。まあ、わかりようもない気もします。

ということで、過激な政策はおっかないですが、どうせわからないということで、しばらくはトランプ劇場をみていくことになるでしょう。

 

セント

土曜日, 1月 21st, 2017
いまさらのようですが,大河ドラマの真田丸が終わり,別の大河ドラマが既に始まっています。

9月頃に,どうにも主人公がダメだと書いた後あたりから,主人公の幸村にも多少覇気がでてきて,マシになりました。
とはいえ,振り返ると全体的に面白かった中で,主人公の存在感の弱さがもっとも気になった点でした。
以前の真田太平記でも幸村がいまいちだったので,ちょっと考えてみました。

そもそも,真田幸村はなぜ有名なのか,というと実は現代日本人には理解しがたい宗教的な意義があると思います。
朱子学の発想でいえば,ダメな主君に最後まで忠義を尽くす有能な家臣というのが,忠 の見本です。
そして,その価値を体現した一人が幸村であり,宗教的表現をすれば,殉教者だったり,聖人だったりする,そういう人なのだろうと思います。
楠木正成や大石内蔵助なんていうのも,同じような方でしょう。

つまり,キリスト教圏で,セントだ,サンタだ,サンクトだという後に名前がつくような,宗教的な感動を呼び起こす殉教者という側面が真田幸村にはあったのではないかと思います。

もっとも,現代人にはそのあたりは全く理解不能。ほとんど共感を持ちえない。その結果,物語は現代風の自己実現的なものになってしまう。
ところが,自己実現の話としては,やはり幸村の行動はとらえきれないものがある。おのずと存在は曖昧になり,現代人にも理解しやすい真田昌幸が魅力的になる。
そんなところでしょうか。

ところで,10月頃から,トルストイの戦争と平和を読んでいます。
この小説での戦争とは,ナポレオンがロシアを攻めたときの戦争です。

で,ちょうど真田丸で大坂方の幹部のダメっぷりが描かれて,それが敗因のような描かれ方をしている中で,戦争と平和では,ロシア側の無策もろもろの大坂方と重なるようなダメっぷりが,結果としてフランスがモスクワまで進むことにつながり,最終的なナポレオン軍の壊滅をもたらしたかのように主張されていました(この小説は小説中に著者の主張がちりばめられている)。ちょうど,タイミングが重なり,面白かったです。
もっとも,ダメだからこそ勝ったというのは事実としてはそういうこともあるだろうし,逆説としては面白い。でも,人間の認識構造は勝ったという結果をもとに何故勝ったのか考え,わかりやすい原因と結果の連鎖をみつけて学習するということだろうから,本当に「ダメだから勝った」ということを受け入れることはできないようにも思えます。

ロイヤルホスト24時間営業廃止

木曜日, 11月 24th, 2016
ロイヤルホストが24時間営業を廃止するということがニュースになっています。

私は,司法試験受験中にロイヤルホストの厨房で,夜間のアルバイトをしていたので感慨深いです。
人手不足が今回の措置の理由とのことでしたが,私が働いていた頃も,厨房は1人の正社員と主力2名ほどのアルバイトで回していて,正社員(料理長という立場)の方は「もうこれで◯時間連続勤務です」とか笑いながらぼやいていました。
そして,主力のアルバイトのうち1名がやめるという話があったような気がして,いったい,この先どうやって回すのだろうと思っていました。

最近の人手不足の状況からすると,さらにすごい状況になっていたのだろうと思います。

ところで,当時私のメインの仕事のひとつは,ハンバーグこねでした(一番下っ端の仕事です)。今もやっているのかわかりませんが,当時のロイヤルホストはファミレスとは思えないほど厨房で料理をしていて,ハンバーグも,こねて,網焼きして鉄板焼きしてという作業は店の厨房で行っていたのです。司法試験に合格してアルバイトをやめる直前くらいに1,2度焼き方を教えてもらったのですが,それはほとんどマスターできませんでした。また,こねる前の状況に何が行われていたのかも知りませんでした。ただ,ハンバーグの作り方のうち,こねる部分だけ熟達していたのです。

実はつい先日,ふとしたことで自宅でハンバーグを私が作ることになり,ネット上の情報をみてひき肉の状況から作ってみました。こねる前の肉の塊に,卵や玉ねぎやパン粉が含まれていたことを,ようやく知りました。分量に丁寧に配慮したおかげで,こねたときの感じは概ね20年近く前の感触を思い起こさせるものになったようです。

なお,「ファミリーレストランの過酷な労働現場を目にして労働法の大切さに目覚めました!」ということは全く無く(※),単に司法試験合格後の司法試験教育産業のアルバイトの割の良さに感激しただけでした。

※事務所内には労働法に詳しい弁護士がおりますので,労働相談もご遠慮なくどうぞ

 

怖いものみたさ

木曜日, 11月 10th, 2016
アメリカの大統領がトランプさんになりました。

番狂わせとの報道も多いですが,イギリスのEU離脱がつい先日あった中,驚くほどのこともなかろうかと思います。

私自身はこわいものみたさ的な興味がありますが,それ以外にも日本のあり方とか国際的な状況諸々についての強い問題提起にはなろうかと思います。

日本での集団的自衛権云々の話のときには,アメリカの戦争に巻き込まれるとでもいう論調が大きかった気がします。でも,トランプさんが公約通り自国のことに専念するのであれば,アメリカが世界中で繰り広げると恐れられていた戦争に,日本が巻き込まれることはなさそうです。でも,日本も守ってくれないとなると,自分で守るのか,日本もアメリカを守るから,アメリカを日本を守ってくれとするのか。いずれにしろ,日本の集団的自衛権問題についても,議論の前提が変わってきそうです。

アメリカが世界の警察官をやめた場合は,世界のアチコチでのいわゆる「人権侵害」とやらは,日本も足並み揃えて放置ということでしょう。わが憲法は前文で「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは,いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって」とか色々書いていますが,アメリカの軍事行動なしには,自国にことに専念するしかなさそうです。経済制裁の類では,ほとんど効果がなさそうなことは,北朝鮮との関係でも明らかそうですし。NPO頑張って!ということでしょう。

いずれにしろ,第二次世界大戦後の世界秩序が大きく変わるかもしれません。

もっとも実際のところ,公約のうちどの程度実現できるのか,よくわかりません。

気になるのは,自由貿易主義に反対する国民の支持を受けているということです。自由貿易が正しいのかどうかは,色々議論のあるところだろうと思います。ただ,20世紀の歴史を振り返ると,自由貿易主義/資本主義による格差への憎しみ,そこから生まれた社会的弱者(労働者とか農民とか)の崇高性思想とその支持という事情は,数々の大虐殺を産んできたと思います。いまさら,大虐殺がおこるとは思いませんが,ろくでもないことくらいは起こるかもしれません。

ところで,トランプさんが支持をうけた理由について色々分析されています。私はアメリカに行ったことはありませんから適当なカンで書きますが,そういうことじゃないのではないか?という気がしています。日本語でいえば,肯定的ニュアンスで使われる「やばい」という感じ。「トランプはやばい」「トランプが大統領ではやばすぎる」という痛快な感覚が一気に伝播し,クリントンが大統領になった場合の退屈感を凌駕したんではないかという印象です。

自動運転どこまでいけるか

火曜日, 8月 9th, 2016
1年ほど前に,その時点で,もっとも進んでそうな自動運転的車を購入しましたが,その上での感想です。

法的整備が追いつけば,技術的には自動運転実現可能であるかのような話を,何度か耳にしたことがありましたが,実際には,そのレベルには遥かに遠いかな,と思います。

まず,現時点で,技術的に実現できそうなのは,緩いカーブのみが続く高速道路(たとえば第三京浜)であれば,自動運転は可能かなあと思います。
高速道路の合流が終わった時点でスイッチオンして,降りるべきインターが近づいたらスイッチ・オフする。その間は,自動運転というくらいは,もうひとおしでいけそうです。

でも,たとえば,ちょっとカーブが急になると認識が難しくなっています。確かに,映像としてカーブを進行方向から撮った場合,進行先やカーブの曲がり具合に関する情報は乏しいです。上からみるのとは大違いです。ですから,苦労するのもわからなくはありません。そして,この問題はアルゴリズムの進化やコンピュータの処理速度の高速化,ナビとの連動によって解決していくだろうと思います。
でも,このレベルのことでヒイヒイいっている状況では,一般道路で信号を認識したり,交差点を曲がったりなんて,とてもじゃないけど無理だろうと思います。
たとえば通信回路経由で交差点ごとの信号の状況を各クルマに一斉配信するくらいしないと,無理なんじゃないかという気がします。

なにより,自動運転に悲観的になるのは,コンピュータが適宜固まる点です。ごくまれとはいえ,ハンドル補助装置等が動いていませんなんていうエラー表示がでてしまって,一度エンジン切ってしばらくまって再度エンジンをかけるという,いわゆる再起動的なことをしないと復旧しないことがあります。コンピュータとしては,PCであれちょっとした機器類であれ,ごく当たり前の現象ですが,このようなものに自動運転を任せられないのは明らかです。

ということで,完全な自動運転までは,まだかなりの技術革新が必要だろうと思います。

とはいえ,現時点での半自動運転でも,長距離の高速道路運転に関しては「もう普通の車には戻れないかも」という程度には快適なので,普及は進んでいくだろうと思います。

憲法改正

木曜日, 7月 28th, 2016
参議院選挙の結果として憲法改正ということに現実味がでてきました。

いざ,国民投票となったときに,多少はしっかり考えをもてるように,諸外国の憲法でも勉強してみようかなという気になってきました。

憲法改正自体は,どんな改正でも反対という人もいるのかもしれませんが,どのような改正をするか次第ということで,賛否の意見も異なるのだろうと思います。

そして,その改正の意味自体,法律家がそれなりに冷静に説明してくことはその社会的な役割です。ただ,現状の弁護士会とか日弁連は政治性が強すぎて冷静な説明を期待することは困難と思われます。

自民党の憲法改正草案をみると,確かに今の憲法論を学んで来た法律家はギョッとするような内容もあります。でも,それがファシズムまっしぐらな内容なのか,諸外国の憲法にもある普通の条項なのかといったあたりについて感触をつかむことができたら,このブログの中で解説することができればと思っています。

感情偏差値

水曜日, 6月 22nd, 2016
人工知能の囲碁がかなり強くなったとのことで、
人間の仕事がなくなる、人工知能に支配される
等、色々な話がぶり返しています。
実際、人工知能が発達した場合どうなるかはわかりません。ただ、人工知能には無理そうなこと、を予測させる話があります。
別の本での「また読み」なのでやや不正確なのですが、ダマシオという方によると、
脳の一部が失われて感情を失ったが知能は失われていない人は、ほとんど何も決めることができなくなった
とのことです。
感情がなく徹底的に理性的な人は、分析はできても何も決めることができない、のかも。ということです。

人間が何かを合理的に決断するというのは、
合理的な分析の結果、結論がでるのではなく、
気分が高まってある種の結論がでて、それを合理化する理屈が生まれ、その上で合理的に結論を出した気になるということ,
かもしれません。
人から尊敬・同情を得たいとか(「そんな決断をした自分が好き」とか)、憎しみが高まって嫌がらせをしたいという感情がなければ、何も決められないのかもしれません。

そんなわけで、どんなに頭がよくても感情がない人工知能は,
何も決めることができない存在になるか、
人工知能内で適当にサイコロでもふってでた結論について、もっともらしく理由をつけて決断したようにふるまうしかなく、
結局、何かを決めるような作業はできないかもしれません。

機械が登場することによって、産業革命以前にはとても大事だった肉体的なパワフルさは人間の価値にとって重要性を失いました。代わりに、知能の高さが重要性を持ってきました。
人工知能が登場することによって、知能も肉体的なパワフルさと同じ運命になり、次に主役の座につくのは感情の強さになるかもしれません。

 

富士山登山

日曜日, 4月 10th, 2016
高校2年生が富士山に登ろうとしたが救助要請とのことです。

思わず自分と重なって色々思い出しました。

実は,私も高校3年の9月に積雪した富士山に単独で登ってきたからです。

高校3年でいわゆる受験だったのですが,それまでまともに勉強習慣もなかった中,完全に毎日勉強するとへばるだろうと考えて,8日に1回の完全休養日(まったく勉強しない日)を作っていました。
で,8日に1回なので毎週休みになる曜日がずれていって,たまに日曜日が完全休養日になります。

このときの9月に日曜日が完全休養日になりました。
で,何をしようかと考えていたのですが,その年の正月に年賀状配達のバイトをして手に入れたマニュアルギア付の50ccバイクでどこかにいこうということまでは決まりました。

その中で,そういえば富士山にいってないなあ,富士山にでも行ってみようか。
いずれにしろメインはバイクツーリングですから,5合目まで行ければ,目的達成です。
あわよくば山頂という考えもありましたが,それはあくまで「あわよくば」で,もし5合目に来てどうしても登りたくなったときに必要な装備(雨具や防寒具,水筒,非常食等)は念のため持って行くことにしました。

で,当日,富士山に向かって,246をひた走る(原付なので高速は走れない)と,真っ白の富士山が現れます。えっもう雪が積もっている。前日までに把握した状況だと雪はないはずでしたが,どうやら初冠雪だったようです。その姿をみて,5合目であきらめようと腹を決めました。靴は運動靴でしたので,さすがに雪山は無理です。

さらにバイクで5合目に近づくとバイクの調子も悪くなります。あとで分かりましたが,酸欠だったようです。それでも,だましだまし,何とか5合目にたどり着きます。

みると雪があるといっても,数センチつもっているくらいで,道には雪はほとんどなさそうです。いけるところまでいくか。今日は天気はよいし,もし途中で道にもたっぷり雪がついていてこれ以上登れなければひきかえせばよい。はじめからあきらめたら,意気地のなさに後悔するに違いない。ということで,5合目から上を目指して歩き始めます。

で,多少のエイヤもありましたが,たしか2時間もかからずに山頂に到達しました。自分の冒険心に満足しながら,山頂剣が峰の富士山測候所に近づきます。ところが,測候所の上だか何かで外人が上半身裸で日光浴して寝っ転がっています。これにはさすがに驚きました。寒さに対する感覚が違うのか,この衝撃は未だに忘れられません。

そんなわけで,無事,家に戻ってきました。

なお,そんな私の感覚でも「さすがに4月は無理だろう」と思います。大学生の頃に5月にスキーをかついで富士山に登って滑り降りたことがありましたが,その頃は下からみるとほとんど雪がないようにみえますが,それでもかなり雪が残っています。

なにより私は高校では山岳部でしたので,高校生の中では登山経験が豊富でした。少なくとも本当に無謀な試みではなかったはずです。もっとも,翌日あたりに,山岳部の顧問から「勝俣,昨日,富士山にいなかったか」と突然言われて,「いるわけないじゃないですか」とごまかしました。当時,部として無届けの登山や単独登山は禁止ということになってましたので。しかし,なぜ,顧問も富士山にいたのか,偶然とはおそろしいものです。

今回が,どういった事情なのか知りませんが,富士山に無謀な挑戦をしてニュースになるのは外人ばかりだったので,少し「おっ」と思った次第です。でも,やはり4月は無謀だな。