Archive for the ‘弁護士勝俣豪の雑感’ Category

アツ

土曜日, 2月 24th, 2018
弁護士の仕事で,重要なことの一つは交渉です。
いつもやさしく仕事をしていて,円満解決といけばよいのですが,なかなかそうも行かないことがあります。
交渉相手なり,交渉相手に関係する第三ターゲットなりが,精神的に負担に感じること,嫌だと思うこと,
そういうあたりを意識させていくことで,事態を動かすことも必要な場合が多くなります。

事態が膠着状況になって弁護士から相談をうけた場合等に,「では,○○と言ってもう少しアツを掛けたらどうか」「こんな行動をとるとアツがかかるのではないか」等とアドバイスすることもあります。

私は「アツをかける」という言葉をごく当然のように使っていて,聞いた方も分かったような雰囲気だったのですが,伝わっていたのでしょうか?
聞いた方は,分かってなくても「ハイハイ」というのは世の常です。
圧力を掛ける,プレッシャーを掛けるということなのですが,なぜ,私は「アツかける」というようになったのでしょうか?
思い起こすと,ラジウスが起源のようです。

ラジウスというのは,その昔,高校の山岳部で使っていたコンロです。
灯油が燃料です。ガスが燃料であれば,十分な圧力が加わった気体が出てきますので,すぐ火がつきます。
しかし,灯油の場合,気化させるために,まず固形アルコールで十分上部を暖める必要があります。
十分暖まっていないと,液体の灯油が噴き出して引火し,(テントの中で)火柱があがるという難物です。
ある意味,ラジウスに火をつけることができれば一人前的なところがありました。
もっとも私は,「こんな不合理な道具はさっさと廃止してガスコンロを導入するべきだ」とか言いながら,
ラジウスの扱い方を覚えたのはだいぶ後だった気がします。

さて,ラジウス上部に灯油があがって火がつくには,ラジウス上部が暖まって気化するだけではだめで,灯油タンク内に十分な圧力が必要です。
その圧力を加えるために,棒のようなものを引っ張り出してポンプする(ポンピングする)という作業も必要になります。
圧力が弱まってくると,なんだか火が弱くなるので,「アツを加える」必要があったのです。

ラジウスを使わなくなってから弁護士になるまで10年の歳月がありますが,突如として,「アツを加える」が復活し,皆様の事件の解決に役立っていると思うと感慨深いものがあります。

競争回避

火曜日, 10月 17th, 2017
私の諸々の社会的属性、職業、学歴、業界内での位置付けあたりからすると、特異かと思いますが、私は競争や勝負事があまり好きでなく、モチベーションの原動力としても微弱です。

おそらくのところ、人格形成期初中盤において勝負に勝てないことが続いて競争回避的になった上に、人格形成期終盤に試験能力はあることに気づいた後は、他人と競争するような環境にいなかったことに由来するのではないかと講釈付けしています。
勝負に伴う感情がないわけではなく、勝ったことによる喜びよりも、負けたことの苦痛や負けさせたことに対する苦痛が予感されて、面倒になってしまうというところかと思います。

例えば、スキーは好きなのは、スポーツの中では珍しく、人様と勝負もせず、時間等の数値とも比較されずに、行うことができるからかもしれません。ここ何年か水泳も続けていますが、時間を図るという行為とは無縁です。

弁護士の仕事を回避して経営仕事に専念するようになったのも、おそらくは同根かと思います。なお、当事務所の他の弁護士は闘争心・競争心にあふれていますので、ご安心ください。

では、事務所運営において、競争心はどうなんでしょうか?
ありがちな経営理論としては、「一番か無か」的な理論です。一番のみが大きな利益を手にすることができる、一番でなければ経済変動で潰れるといったあたりです。よく、日本で一番の山が富士山であることは誰でも知っているが、二番目に高い山は多くの人が知らない、なんて例が出ます。こうなると競争心は、とても大切ということになります。

でも、一番というのはそいつがいなければ、二番のやつが一番になるだけであって、そいつがいようがいまいが根本的にはどうでも良い話です。富士山がなければ、北岳が一番の山になるだけのことです。

でも、富士山の例で言えば、北岳が日本一であれば、富士山のようになれたかというと、きっとなれないと思います。せいぜい、信濃川(日本で一番長い川)の仲間にしかなれないでしょう。

競争心が強い人にはピンとこないかもしれませんが、富士山は一番高いことだけがすごいわけではないです。単に一番高ければ富士山になれるわけでありません。台湾が日本領だった頃は、富士山は日本一高い山ではありませんでしたが、それで富士山の価値が落ちるわけではありません。
(なお、このように書くと富士山大好きで、北岳くだらないと思っているかもしれませんが、北岳は私の登山時代のクライマックスとして、バットレスに登りましたので思い入れの強い山です)

ということで、一番になるとか、数値との勝負で大きくするというのはイマイチ魅力が乏しいと思えます。どちかというと、びっくりさせる、度肝を抜く、感動の涙を流させる、誰も考えていないことを引き起こすといった方向性の方が、成功に対して痛快さを感じます。

当事務所の運営としては、できるだけ競争を回避して生き残りつつ、いつかは当事務所がなければ生じ得なかったようなこと(もちろん良いことで)を起こした(起こし続ける)事務所と言われることを目指していきたいと思います。

アディーレ業務停止 本当に問題なのは

木曜日, 10月 12th, 2017
アディーレ法律事務所が業務停止になったようです。

以前からデタラメだなと思っていましたが,現実になりそうです。

今回の件で,一番迷惑を被るのは,同法律事務所に依頼した方々です。
いきなり依頼していた案件を放り出されるわけですから。

懲戒処分になるような事務所に依頼したから悪いのでしょうか?
そんなこと言われても困るでしょう。

そもそもこんなことになってしまうのは,業務停止の懲戒処分ですべての事件をやめなければならないということにしているからです。
誰がしているかって?弁護士会です。
その事務所に依頼している依頼者のことなんて,ほとんど考えていないことなんて明らかです。

貸金業者なりなんなりが,監督官庁から業務停止になることはありますが,たとえば新規貸付業務の停止であって,すべての顧客との取引の解消なんて無茶苦茶なことは要求しません。

条文上,貸金業法は「その業務の全部若しくは一部の停止を命ずることができる」(24条の6の4)に対し,弁護士法は単に「2年以内の業務の停止」(57条1項2号)とあります。

弁護士法上,全部の業務の停止とは書いていないので,一部の業務の停止処分もできると解することもできるでしょうし,それが難しいのであれば弁護士法の改正を働きかけることは容易で,その改正に反対する外部者がいるとは思えません。

つまるところ,弁護士業界の監督機関は,国民が弁護士を利用しやすいように監督するのが目的であるにもかかわらず,
弁護士利用者に過大な負担がかかる懲戒処分制度を改善する気がさらさらないということです。

もっと債務整理が多かった時代は,非弁提携といって弁護士以外の業者から大量の依頼者の周旋を受けていた弁護士の業務停止がちょこちょこあって,同じような問題がでていました。
これも大規模ではあったのですが,アディーレ法律事務所の業務停止となると,遥かに大規模で,業務も債務整理に限らないので,順調な引き継ぎがなされるか懸念されます。

今回のことで,アディーレ辞任の被害にあった方は,その矛先をこのデタラメな制度に向けて欲しいところです。

無知の知

火曜日, 10月 10th, 2017
すべてのことはソクラテス・プラトンで語られている,という哲学文献学者的な発想があります。
その後の哲学者が色々言っても,本質的なところは既にソクラテス・プラトンで指摘されている問題だということです。

さて,脳の仕組みだったり,統計だったり,と色々勉強してくと,結局のところほとんど何も分からないのではないかという気持ちが強くなります。本来わかり得ないはずのことを,わかるかのように誤解する強いバイアスを人間の脳は持っていて,何かが分かる気になっているだけということです。
先々のこと,経済のことでも,政治のことでも,国際情勢のことでも,人間は色々と語りたがります。このような将来予測の能力を人間が有していないことは明らかです。それでも,夢中になってあれこれと思いをめぐらし,本気になって怒ったり,不安になったりします。
もちろん,それが人生の醍醐味というところでもあるので,黙る必要はないでしょう。

でも,責任を持たなければならない仕事となると話は少し変わってきて,もう少し知的に誠実になる必要もでてきます。
わかり得ないことはわかり得ない,無駄なことは極力しないということが肝心になってきます。

そんなことを考えていると「無知の知」というある種使い古された言葉も新鮮味が出てきます。
自分の馬鹿さ下限を自覚してもっと勉強せえ,ということではなく,わかり得ないことはわかり得ない(ヴィトゲンシュタインのようになってきますが)ということを常に自覚することが大事だと思います。脳はわかり得ないことを,わかるかのように,色々ともっともらしい理屈をつけて意識に送り込み続けるからです。

かといって,人間には何もかもわからないかということ,そうでもありません。高いところから飛び降りれば,大変なことになることは絶対確実ではないにしろ,ほぼ確実です。

つまり,事務所の運営という私の仕事で大切なのは,ほぼ確実といえるわずかなことを出来る限り見つけていくこと,それ以外のことは分からないという自覚を常にして無駄なことをしないことだろうかという気がしてきています。
今のところ,ほぼ確実かなと思っているのは
赤字になることは継続できない。
人は増やさないとと増えない
宝くじは買わないと当たらない(新しい事業はやらないと新しい事業ははじまらない)
時間は限られていて,できることには限りがある
というあたりです。他にも何かないか考えるようにしています。
それ以外の多くのことは,本や人が語ったり,自分の頭の中も色々理屈がめぐりますが,考えるだけ無駄なことが大半なのかもしれません。
考えるのが無駄ということをふまえれば,占いやジンクスも,むしろ,神秘性があったり,結論がでるのが早い分,有効な場合もありそうです。

以前にも書きましたが当事務所は会議はほとんどしません。
それは,上記の理由もあります。
考えても分からないのであれば時間を浪費せず,決めなければならないことは責任者がエイやと決めていけばよいということです。

そんなふうに思っていると,今度は「無為自然」なる言葉もでてきて,昔の人はえらいものです。

自動運転技術を信号機に

月曜日, 6月 19th, 2017
車の自動運転について,話題になることが多くなっています。
私も,かなり便利な運転アシストに助けられています。
とはいえ,さらなる発展には色々とデータ収集も必要なようです。

ところで,自動運転にあたっては歩行者等の動きを認識することが必須で,そのセンサーを安くするにはできるだけ量産することが望まれましょう。
であれば,まずは信号機につけてもらいたいものです。

信号機も,少し前までは,押しボタン式にしたり,感応式にしたりと,なんとか無駄な赤信号を防ぐ努力が行われていたようですが,ここ数十年は完全に改善努力をサボっているようです。
強いていえばLED化程度の非本質的な改良程度でしょうか?
未だに,誰も渡らないのに歩行者用信号のために車が赤になったり,全く交差道路に車が来ないのに赤信号を待っていたりということがあります。
このような問題は,自動運転に搭載予定のセンサーを信号機につければ,簡単に解決する問題のはずです。
信号機に必要なレベルの認識すらできないのであれば,車はうごかせません。信号機であれば認識漏れがあっても,赤になる時間が長くなるだけです。その場合には,すぐに苦情がくるでしょうから(その番号もしっかり広報しておけば),センサーの問題の検証にはうってつけでしょう。 ,

政府主導で自動運転を推進するのであれば,政府が関与しやすい信号機についても旗振りをしてもらいたいものです。

 

共謀罪より過失

金曜日, 5月 19th, 2017
共謀罪について,色々と反対意見等があるようです。
実際に大変なことになるかは,私にはわかりません。

ただ,実際に今運用されている法律の中で,それなりにデタラメ感があるのは過失責任という考え方です。
民事上は,過失によって人に損害を与えれば,その損害を賠償することになっています。
刑事上は,過失によって人を傷害するなりすれば,処刑されます(特に,「業務」という意味不明の要件がつく場合は重罪です)

過失というのは「わざとではない」という消極的な要素もあるのですが,過失があったかなかったかについては,次のように考えることとされています。

損害を与えるなりの結果が予測できたかどうか→結果が予測できたのであれば,それを回避するためにどのような注意をするべきだったか→その注意する義務を怠ったら過失あり

ということです。
結局,問題となるのはどのような注意義務があったかということで,これが交通事故の場合であれば,その注意義務の内容は道路交通法に細かく規定されています。

でも,交通事故以外の多くの場合,あとから裁判所が状況を判断して,このような注意義務があったと決めて,遡及的に処罰します。
人間(人間が裁判官をやっている場合は裁判官も)は,起こった出来事については,当然そのような出来事が起こることを予測できた気がしてしまう強いバイアスを持ちます。
で,おそらくこのバイアスは,全精力を傾けても逃れることはできません。結果を知ってしまった後で,結果が生じる前の当時の状況を的確に想像できるようには人間の認識構造はできていません。

たとえば,現状で言うと北朝鮮が日本に核爆弾を落とす可能性がそれなりに高まっていますが,多分大丈夫だろうと思いながら生活しています。
でも,実際,核爆弾を落とされてしまった上で振り返れば,なんであれだけ危機的状況が迫っているのが分かっていながら,避難もせず,「まあ大丈夫だろう」なんて思えたのだろうという気がするわけです。たいてい,過失を問われてしまう人の意識は,そういうものだろうと思います。確かに,今言われてみればそういう危険があることは予見できたけれど,周りの人もそれほど危険を意識した行動もしていないし,そこまで気をつけることとは思わなかったと。
で,爆弾を落とされた後になって,核爆弾を落とされることが予見され,それを回避する(たとえば子どもを連れて国外や爆弾が落とされにくそうな田舎に避難する等)注意義務があったのに,それを怠ったと言われてしまうのが過失責任ということです。

医療過誤で医者が逮捕されたり,認知症の老人が起こしたことの管理責任を問われたり,企業活動上の事故でトップが突然刑事責任を問われたりなんていう「あれ?」というような出来事が起こってしまうのは,過失責任論という人間の認識バイアスや,事後法の禁止という基本的な法理念に反した概念が根拠となっているのだと思われます。

ですから交通事故のように事前に法律によって注意義務が明示されている場合以外は,過失責任については,もっと謙抑的に運用しないとならないと思われます。

時間ケチ

水曜日, 4月 26th, 2017
ケチというと普通は金銭面で支出に(場合によっては過剰に)渋いことです。
私自身は,本来的にはそれほどお金にケチではないと思うのですが,既に10年以上にわたって山あり谷ありで事務所の運営をし,マキャベリの言葉に触れ,ケチであることは自分の職務上の義務として捉えています。
もし,「私自身は,本来的にそれほどケチでない」という部分に事務所内の人が「何言ってんだ!」と思ったら職務としては上々かなと思います。

ところが,時間については,おそらく本来的にとてもケチです。
とにかく,何事であれ無駄な時間がでることがストレスで,とにかく早く終わらせようと思います。その結果,概ねいつも暇です。金があるのにケチというのと同じで,暇なのに時間ケチということです。

今までは,これは自分にとってよい習慣だと思っていました,ドラッカーをはじめ時間の貴重性を説くビジネスの言葉は無数にあります。そして,自信を深めていたのです。

でも最近,お金にケチな人が本来のお金の有用性,お金がもたらす幸福等を味わえないのと同じことになっているのではないか,という気がしてきています。何事につけ,早く終わらせることに注意と興味と楽しみがいって,そのときにしていることそのものの充実感を味わうことがおろそかになっているのではという疑念が生じてきています。

だからといって,お金のケチがそうそう気前良くなったりすることはないし,なったらなったらなったで一気に破綻する危険もあるのと同じで,そうそう考えの習慣を変えるのは難しいと思います。
でも,多少は自分の時間ケチな発想について懐疑的になろうかと思っています。

無会議

火曜日, 4月 18th, 2017
前回に引き続き,よりアクティブな事務所と比べた当事務所の運営上の特徴です。

当事務所では,いわゆる会議というものがほとんどありません。
もちろん「会議ではなく朝礼である」というような準会議もありません。

私が参加しない簡単な会議は年に数回あるかもしれませんが,私を含んだ会議はこの1年1回だけ,昨秋に試験的にやっただけです。
つまり無権力ですがワンマンで独裁体制ともいえます。専制君主は議会を招集する気がないのです。

事務所が6箇所に散らばっていて集まるのが面倒というのもありますが,今はPCさえあればテレビ会議ができ,テレビ会議はさしたる手間もなくできます(そのためのカメラも数年前に購入した配布したこともあります)。なので,会議の必要を感じれば,会議を開くことはできると思いますが,今のところ必要も感じず,要望もありません。

会議を開く理由について考えてみると,1つはやはり方針の徹底です。
私の考えていることは事務所内の掲示板に書きます。皆,読んでくれているはずですが,たまにアレッということもあります。
そうすると会議でも開いて,情報伝達を徹底したくなる誘惑に駆られます。
会議というよりは,面と向かって方針を教育する集会ということです。より効果的にするために,方針に沿った意見を言ってもらうといったことで,情報伝達に対する不備を補いところです。
ただ,面と向かって言っても,そもそも関心がなければ聞かないでしょうし,聞いていても,それが行動にまでなるには会議以外にも様々な過程が必要そうです。そんなことで,方針伝達会議を実施したい誘惑もありますが,集合をかける程の気力が沸かないということかもしれません。

次に諸事項の決定です。
でも新しいアイデアは思いついたら,気分が乗っているうちに即実行がよいと思いますので会議の決済なんて面倒です。
あとは,諸々どうでもよい決定事項です。こういうのは沢山あります。A案とB案のどちらかを選ばなければならない,正直,どっちも一長一短です。こんなものはクジで決めても,じっくり議論しても,先のことはわからない以上,同じことです。こんなものは適当に私が決めてしまって,私が決めたということだけ明示しておけば十分な気がしています。ただ,この手のことも決定のストレスはそれなりにありますので,皆で決めたという形にしたくもなります。

あとは根回し的なところです。やはり重要な事項については,事務所内の意見を聞かずに決めるわけには行きません。
でも意見のない人まで会議に集めるのも無駄な気がします。ということで,所内掲示板で叩き台となる案を出して,意見を募集し,意見がなければ実行,意見があったら修正,撤回ということをしています。もちろん,本当は貴重な意見を持っているけど,掲示板には書いてくれない人もいるかもと思いますが。
さらに,もう少し気持ちを入れる必要がある事項は,関係ありそうな人に個別聴取して決めるということもあります。指名は私のカンなので,皆を会議に集めた上で募集したら隠れた逸材が参加してくれるかもしれません。

強いて会議的なものがあるとすると,私と誰かが話していて,たまたま近くにいたもう一人の意見も聞きたくなって「ちょっといい?」と呼んで3人くらいで話している状況がそうかもしれません。

まあ,そんなところで,迷いつつも会議が開かれていません。
そこそこの規模の事務所で働きたいと思っている人にとって,事務所会議は(好きな人は別として)それなりに面倒な出来事なのではないかと思います。
そのような想定のもと,当事務所は,会議に煩わされずに,本来の弁護士業務に専念できる事務所という側面はあるのではないかと思っています。

また,当事務所の弁護士に電話を頂いた際に,「ただいま打合せ中です」という回答をすることもあります。これも,所内会議ではなく,他の依頼者等との打合せ中ということです。

 

無権力

金曜日, 4月 14th, 2017
昔の話が続き,老化の影に警戒感がつのります。
内容を切り替えます。

ここ半年ほど,当事務所よりはるかに大規模だったり,急成長していたりする弁護士事務所や税理士事務所の代表の話を聞く機会が続いています。
そういう機会があると,当事務所における運営スタイルを客観視することができ,特徴が浮き彫りにされてきます。

そのひとつが,代表である私の権力のなさです。
これは,当事務所の皆が私の言うことを聞かずに好き勝手にしていて,どうにもならない,という話ではなくて,事務所の仕組みやマネジメントスタイルとして,そういうことになっているということです。

色々話を聞く中で人事評価権限が権力の源泉となる(当たり前のことというニュアンスのもと)という話を聞いて,なるほど実感しました。当事務所では,私が何らかの評価をして待遇に反映するという仕組みが弁護士であれ,事務スタッフであれ当事務所には存在しません。
あまり考えていませんでしたが,これは他の事務所とは大きく異なるあり方のようです。

それぞれ容易に予想される一長一短はあり,おそらく当事務所のスタイルでは急成長は難しいかもとも思います。が,まあどちらがよいかというのは人知の及ばないところでしょう。いずれにしろ,当事務所が今のスタイルなのは,私が精神的に虚弱であり評価権限というプレッシャーがきついことや,出来事の評価を人間がなしるうことに懐疑的だという私の性格や考え方に依存するところもあると思います。もちろん,現在のあり方が最善と思っているわけでもないので,仮に評価制度を導入するとしたらどういうものにするかということは,常に考えてもいます。

評価しないのは逃げているだけかなと思うこともありますが,アドビ等の先進的な企業で業績評価を廃止しているトレンドがあるという話もあり(それが当事務所のようなものなのかはわかりませんが),必ずしも不合理ではないようです。
少なくとも,内部的なコミュニケーションについて真意からなのか評価目的なのかということを考えずに済むことや,中傷を聞かずに済むことは,マネジメント業務に専念する上では大きなメリットを感じることができています。

 

春山

木曜日, 4月 13th, 2017
少し前のことですが,雪山訓練をしていた高校生が雪崩の犠牲になりました。
犠牲になった方は気の毒ですが,こういう行事がなくならないことを祈って,昔のことを書きます。

実は,私も高校2年から高校3年にあがる春休みに,県が主催していると思われる春山講習会(つまり雪山での行動訓練。場所は八ヶ岳)に参加しました。
山岳部というのは特殊で,基本的に他校との交流はありません。
そういう中で,唯一,他校の生徒も参加する行事がこの春山講習会でした。
他校が参加するからといって交流を深めたりするわけではないのですが,やはり他校の連中が我々に比べてどうなのか,というのは気になるところなので,強い興味がわく行事です。

さらに,雪山では,アイゼンやピッケル,その他ヤッケとかオーバミトン,スパッツ等の衣類といった特殊道具を使えます。
こういうものを使ってみたいという興味はありますが,自分の学校単独で雪山に行くということはないので,特殊道具を使ってみることができる貴重な機会が春山講習会でした。

実際,何をしたか詳細な記憶はないのですが,横岳(南八ヶ岳のほうの横岳)の山頂で穴を掘って風を防いだこと(これは教わったのではなく,勝手にやってみた),下り坂でグリセードといって靴をスキーのようにすべらせて滑り降りたこと,滑落停止訓練というのをうまくできないと,どこぞの熱心な先生に「死んだー」と叫ばれていた(つまりそのようなやり方では現実の環境では滑落を止めることはできないことの強い表現)こと等はいまも覚えています。

ところが,この手の行事に参加するというのは顧問の先生方にとっては面倒で負担です。
我々の期は,人望ある部長がいたおかげで,顧問が面倒な行事にも色々つきあってくれたのですが,上の代のとき(つまり私が高校1年から2年にあがる春休み)は春山講習会には参加できませんでした。

その代わりに上級生により決行されたのが丹沢登山です。丹沢は我々にとってホームグラウンドのようなところで,大したことはないはずでした。雪山道具を少しでも使えたらという希望もあったようで,特殊用具ももって行きました。この登山は,よく事情は覚えていませんが,顧問はおらず生徒のみで行われました。

ところが,2日目の朝,目が覚めたら,一面銀世界の雪山が待っていました。上の代はともかく,我々は特殊道具の使い方等知りません。
何度となく,滑落(つまり雪のなかで制御不能になって相当距離滑ってしまうこと)がありましたが,上級生の山行継続の意思は強く2日目の幕営(檜洞丸の山頂)が行われます。

翌朝,さらに状況が悪化します。夜間にさらに雪が降り続き,翌朝には十分な雪がまんべんなく積もって道が全くわからなくなります。勝手知ったる東丹沢であれば,カンで進めたかもしれませんが,あまり来たことがない西丹沢ではどうにもなりません。
どうにもならないまま停滞(行動できずにテントで様子見)します。我々のテント(我々の代3名が止まるテントで上級生はいない)は入り口のチャックが壊れていて,風や雪がそれなりに入ってきます。しかも,誰かが気を聞かせて(つまり,どうせすぐ帰ってくるだろうという見通しのもと),本来の指示された量よりも大幅に少ない灯油しか持ってきていませんでした。その結果,寒さを凌ぐために,夜間照明用のろうそくの火をで暖をとりながらシャウトを繰り返す状況でした。
そんな中,別のパーティがあらわれ,下山道に踏み跡をつけていってくれます。雪は降り続いていますので,すぐに行動しないと踏み跡は消えてしまいます。ようやく上級生の英断がなされ,踏み跡と辿って下山がはじまります。途中,踏み跡が消えかけて間違えた方に降りてしまって登り直したり等ありましたが,全員無事で戻ってくることができました。

今となってはよい思い出ですが,遭難すれすれだった気がします。
この出来事のきっかけは,上級生が春山講習会に参加できなかった悔しさだったと思っています。

そんなわけで,やはり春山講習会のような行事は継続したほうが,よいのではないかという気がしています。